第50話 高卒認定試験用の勉強ですか?
いつものように消毒臭い保健室に着くと、松本先生が机の上に積み上げられた分厚い本を整理していた。
「天心君。おはよう」
顔を上げた先生が微笑みかけてきた。
以前は鬼のようだったけど、優しい笑顔なら、案外美人なんだよね。
「おはようございます」
俺の靴音が、リノリウムの床に小さく響く。
「今日からは、高卒認定試験用の勉強をしましょう」
「……え?」
……マジかよ。
思わず間の抜けた声が出ちゃったじゃん。
「昨日で、中学生のカリキュラムは終わったでしょう。天心君は高校に行かないんだから、高卒認定で合格できるようにしておかないとね」
机の上の本の山は、高校の参考書かよ!
「半年で高校三年分ですか? 大丈夫ですか?」
さすがに量が多いんじゃないかい?
俺は、高卒認定を受けることには、積極的とは言えなかった。
まあ、今の知力なら、受かるかもって思うけど。
「天心君なら大丈夫よ。君、ピクチャーメモリだし、理解力もすごいじゃない。たったあれだけの勉強で、500点満点取れちゃうんだもの。高卒認定なんて簡単にクリアできると思うわ」
たまたまね。
500点満点取れたのは想定外。
「そうなんですか?」
「そうよ。それに高卒認定って、中学生~高校1年生くらいの学力で合格できる難易度なの。合格点はおおよそ40点前後。合格率は毎回3~4割程度。受験科目は8科目と多いけど、『より多くの人達に合格してもらうための試験』ともいわれているわ」
先生は指を折りながら説明する。
声は穏やかだが、どこか本気だ。
「出題内容も、大学入試よりずっと基本的。中学から高校1年程度の学力があれば合格できるわ」
それ、余裕じゃね?
40点?
今の俺でも合格できちゃうかも。
「だからね、心配しないで大丈夫。君なら絶対合格できる。これ、私が持ってきた参考書。私が高校の時に使っていたお古だけど、――あげるわ。それをやれば、八割かた合格できる。足りなさそうなところは、あとで参考書を買いに行きましょう」
「先生と本屋に行くってことですか?」
思わず聞き返す。
「いやかしら?」
先生が少し首を傾げる。
いやに決まってるじゃん。
「――いいえ。ありがたいですけど、えこひいきとか言われませんかね」
「教材を買いに行くだけだもの、何も問題はないんじゃない。私は、あなたの教育を任されてるわけだし。もう中学のカリキュラムは、全部終わっちゃったでしょう? 何か教えないと、することないのよね」
教えてくれなくてもいいんだけど、確かに手持無沙汰だな。
ずーっと寝てるってのはダメだしなー?
「それに、天心君は高校に行けないんだから、高卒認定を合格できるようにしておくのは良いことじゃない。普通の頭ならそんなこと言わないけど、君の頭の良さなら絶対合格できる。だから、もったいないわよ」
探索者に学歴が必要かは分からないけど、確かに多少は恰好がつくわなあ。
「天心君なら、高校三年間のカリキュラムだって、すぐに終わっちゃいそうだし、高卒認定取った後、大学だって受かりそう。十八歳にならないと大学は受験できないけどね」
マジですか?
まあ、今の知力5000以上だからね。
ちなみに普通は10。
「本当にもったいないわ。どうして今まで勉強しなかったのかしら」
松本先生が呆れたように、しかしどこか残念そうに溜息を吐く。
……そう思うよね。
でも賢くなったのは、最近なのよー。
「だから、はい」
机の上の参考書の山を指さされる。
高校三年間の参考書だ。
凄い量。
……先生勉強したんだなあ。
てか、これだけ持ってくるの、重かっただろうに。
「電車で、こんなにたくさんの参考書を運ぶのって、大変じゃなかったですか?」
車通勤じゃないよね?
「一日二冊くらいずつしか運んでないから、たいしたことなかったわよ」
……そういうことね。
それでも、毎日のように運んでくれたとはありがたい。
「ありがとうございます。本当にもらっちゃっていいんですか?」
「ええ。私はもう使わないし、家にあっても邪魔なだけだから」
「古本屋で売れるんじゃ?」
「一冊10円くらいじゃない。よく知らないけど」
「国語、数学Ⅰ、数学Ⅱ、英語、物理基礎、化学基礎で60円?」
「だから、ただであげる。でも、公共、歴史、地理の参考書と、選択式の理科は、科学と人間生活か、生物、地学のうち1科目の参考書は買いに行こうね。科学と人間生活を選んだら、物理と化学のどちらかを選べばいいんだけどね」
「えーと。試験科目は、国語、数学、英語、公共、歴史、地理、あと理科5科目の中で、科学と人間生活とその他1科目か、あるいは物理、化学、生物、地学のうち3科目のどちらかでしたよね」
俺は、以前聞いた内容をそのまま口に出す。
「そうよ。さすがは天心君。ピクチャーメモリね」
「物理と化学は基礎だけでいいのですか?」
「本当は良くないけど、その先の参考書は持ってないのよ。必要なら買えばいいし、天心君なら基礎だけやっておけば、100点は取れなくても、受かると思うわ」
なるほどね。
範囲を十分にはカバーしてないけど40点は取れるってことか。
別に俺は、高卒認定試験を絶対受けるってわけじゃないし、受けるとなったら買えばいいかな。
たぶん探索者には必要なさそうだから、……受けないだろうし。
「分かりました」
俺は数学Ⅰの参考書を一冊手に取る。
分厚い表紙は少し角が擦れていて、指先にざらりとした感触が残る。
ページを開くと、ふわりと古い紙とインクの匂いが立ちのぼる。
新品のそれとは違う、何度もめくられた本だけが持つ匂いだ。
最初の章は「数と式」。
赤ペンで引かれた線が、ところどころに残っている。
先生が高校生だった頃に引いたのだろう。
午前中数学Ⅰの参考書を読み返し、設問も解く。
因数分解、二次関数、グラフの平行移動。
理解に苦しむものはないが、さすがに高校内容は密度が違うし、量も多い。
数学Ⅰの参考書を読み、設問を解き終わるのに、午前中いっぱいかかってしまった。
横で俺を見ていた松本先生が、関心したようにつぶやく。
「たった3時間で数学Ⅰを身につけちゃったのね……」
……たった3時間?
俺にしては、量が多くて時間がかかったなと思ったのにな。
先生は、机に肘をついて、信じられないものを見るような目をしていた。
「午後は英語でもやりましょうか……」
「分かりました」
正直、俺は科目は何でもいいのだ。
先生の好きにやってくれ。
ただ、勉強が嫌だとは思わなかった。
これも頭が良くなったおかげかも。
数学は、問題が解けると多少の満足感があるみたい。
「お昼にしましょうか。今、給食を持ってきてあげる」
先生が立ち上がると、白衣の裾が小さく揺れた。
「ありがとうございます。じゃ、俺はその間にトイレに行ってきます」
廊下に出ると、ちょうど給食の準備が始まったらしい。
ワゴンを押す車輪の音。
食器が触れ合う、かちゃかちゃという軽い金属音。
どこかの教室から、パンの袋を開けるぱりっとした音が聞こえる。
俺は、軽く息を吐いてから、トイレへ向かった。




