神の足音3
女神の復活祭に向けてグレイヒ国内は活気付いていた。
グレイヒ王国では本来なら女神に関連する祭りは年に一度だ。しかし境界線の綻びが生じ、再びイシスが力を取り戻した年から聖女がいる間は、年に2回祭りが行われる。
女神イシスを祀る光神祭と、聖女が浄化に成功した日の復活祭だ。
2週間後に行われるのは復活祭である。
復活祭ではイシスが愛した花が飾られ、感謝をこめた供物が捧げられる。
そして王都の聖堂で民衆に見守られる形で、聖女がイシスに祈りを捧げるのだ。
昨年行われた聖女の祈りは大好評だった。聖女が跪いて祈りを捧げた瞬間、あたり一帯が大きな光に包まれた。そして光が消えた直後は、誰もが分かるほどに空気が澄んでいたのだ。
だからこの時期は、美しくも不思議な現象を体験したい貴族や平民が続々と王都に集まってくる。特に魔術とはあまり身近ではない平民はこの儀式を楽しみにしている。
グレイヒでは魔力は血筋に由来し、ほとんど決まった家系からしか魔術師は生まれない。そして魔術師の家系には代々称号が付与される。
魔力があれば、例えそれまで平民だったとしても、次の日には特権階級の仲間入りできる。つまり平民達は魔法に殆ど縁がないのだ。
もちろん貴族の全てが魔術師というわけではない。魔術師は貴族の約半数ほどにあたる。
魔術を見慣れぬ貴族も多いため、彼らもまた聖女の催しを楽しみにしていた。
このように、通常であれば復活祭前は皆準備に忙殺されながらもどこか楽しそうなのだが、今年はピリピリとした空気がただよっていた。
ーー聖女を迎えに来たという黒い神の噂のせいだ。
特に殺気立っているのは、イシスを祀る教会と政治の中枢を担う国王を始めとした官職者達である。
教会はもちろん聖女を手放したくはない。民衆の支持が得られる分だけ、懐は潤い境界線も安定する。国王にしても同じだ。
グレイヒはイシス教を国教としている。信仰と国の安定が密接に絡むグレイヒには、聖女の存在は必要不可欠なものだった。
王都やその周辺に暮らす国民達は、その殺気立った空気を肌で感じていた。普段は見かけない量の騎士や魔術師、雇われた傭兵が街中を歩いているのだ。
しかし彼らの多くが聖女と言葉を交わしたことがあるため、この物々しい警戒体制に不満を抱いていた。
半年前まではマクシミリアン王子と街を降りてきていた聖女は、この数ヶ月侍女と護衛のみを連れて街に降りていた。
その傍ら、マクシミリアン王子は隣国の王女マリアベラと共に降りていたのだ。
そんな環境では、街中を歩けばそこかしこで王子と王女、聖女と黒い神に纏わる噂が囁かれた。
「マクシミリアン様は何をお考えなんだろうね。これじゃ聖女様がかわいそうだ。このままじゃ、聖女様が例の黒い神様に連れてかれちまう」
「聖女様はこれだけこの国に尽くしてくれたんだ。黒い神様に連れられた方が幸せなんじゃないのかい?」
「なにを言ってんだ。聖女様がいなくなっちまったらこの国は終わりだ!イシス様に見放されちまう!」
「聖女様を苦しめる方がイシス様を怒らせないか心配だよわたしゃ」
やはりここでも意見は割れた。
しかし彼らの多くは、聖女がこの国に留まることを信じていた。
これだけの警戒体制なら、いくら神といえども聖女を浚うことはできないと考えていたからだ。
彼らが絶対的に信仰するのは女神イシスだ。見たことも聞いたこともない黒い神が、魔物を討伐できる魔術師や騎士達には敵うまい、そう侮るのは仕方ないとも言える。
しかし復活祭を迎える一週間前。
王都ベイリッヒに雷鳴が轟いた。先ほどまでは晴天だったはずなのに、と、突然の事に民衆は空を仰ぐ。
暗雲が広がるように王都全てを飲み込んだ。すると次の瞬間、空から声が響いた。
『グレイヒ国民に告ぐ。我は闇の神ハールニッヒである』
男とも女ともつかぬ声だった。その声は王宮にも、教会にも、街中の家の中にも響き渡った。
耳で聞いているのではない。脳に直接語りかける声だった。
『一週間後、光の聖女サクラをこの地から貰い受ける。別れの挨拶を済ませておくがいい』
簡潔な言葉だった。用件は終わりだと告げるように声は消えて、次第に空も元に戻っていった。
魔法に慣れないものの中には驚いて倒れる者もいたが、ほとんどの人間は呆然と空を見上げた。
黒い神の噂は真実だった。
その日から、聖女の住まう離宮を囲む騎士と魔術師の数がさらに増えた。このままでは本当に聖女を失うと危惧したからだ。
誰もが無意識に、聖女は女神イシスのものだと、ーーグレイヒ国のものだと思い込んでいた。
聖女を慕い、幸せを望むものですら、そう信じていたのだ。
だから黒い神から聖女を護るのは、聖女をこの地に止めておくのは当然の事だった。
声が上がる。
聖女様を守れ。
闇の神は聖女様を奪う悪神だ。
聖女様はこの国の王子と婚約しているのだ。
ーー聖女様は、我々のものだ。
声を上げた誰一人も、聖女に真意を問いかける事はなかった。
そうして一週間が過ぎ、とうとう復活祭を迎えた。




