最後の言葉
第44話「最後の言葉」
冬だった。
飯山の空には静かに雪が降っていた。
理人は病室の窓から、その雪を眺めていた。
八十九歳。
長い人生だった。
世界王者になった。
敗北も経験した。
絶望も経験した。
許せない出来事もあった。
それでも。
最後に残ったのは、憎しみではなかった。
人だった。
支えてくれた人。
救ってくれた人。
共に戦った人。
育ててきた子どもたち。
そして何より。
自分の人生を前へ進ませてくれた人たちだった。
⸻
病室には光と美羽。
そして教え子たち。
葵もいた。
歩夢もいる。
理人は少し痩せていた。
だが目だけは若い頃のままだった。
⸻
歩夢が手を握る。
「理人じいちゃん」
理人は笑う。
「なんだ」
「みんな泣いてるよ」
病室に小さな笑いが起きた。
⸻
理人はゆっくり息を吸った。
そして集まった人たちを見渡す。
かつての世界王者。
オリンピック金メダリスト。
教師。
警察官。
医師。
親になった教え子。
たくさんいた。
みんな、自分より立派になっていた。
⸻
理人は静かに言う。
「俺はな」
病室が静まり返る。
⸻
「強い人間になれとは言わん」
誰も言葉を挟まない。
⸻
「勝てる人間になれとも言わん」
窓の外では雪が降っている。
⸻
「世界一になれとも言わん」
理人は少し笑った。
⸻
「そんなもんはな」
「いつか終わる」
⸻
「ベルトも」
「金メダルも」
「記録も」
「拍手も」
⸻
「全部なくなる」
⸻
葵は静かに聞いていた。
歩夢も。
光も。
美羽も。
⸻
理人は続ける。
⸻
「でもな」
⸻
「人の痛みを分かろうとする心だけは」
⸻
「最後まで残る」
⸻
病室が静まり返る。
⸻
「だから」
⸻
「弱い人の隣に」
⸻
「そっと寄り添える人間になれ」
⸻
誰も動けなかった。
⸻
「助けてやるとか」
「救ってやるとか」
「そんな大層なことじゃない」
⸻
「隣にいてやれ」
⸻
「話を聞いてやれ」
⸻
「一緒に泣いてやれ」
⸻
「それだけで救われる人がおる」
⸻
理人の目に涙が浮かんだ。
⸻
「俺はそれを」
⸻
「人生で教えてもらった」
⸻
理人は光を見る。
⸻
「光」
⸻
光は涙を流しながら頷く。
⸻
「ありがとう」
⸻
次に美羽を見る。
⸻
「美羽」
⸻
「ありがとう」
⸻
美羽は声を上げて泣いた。
⸻
そして。
葵を見る。
⸻
「葵」
⸻
「よく頑張ったな」
⸻
葵の涙が止まらなくなる。
⸻
「理人さん……」
⸻
理人は少し笑った。
⸻
「もう先生じゃないな」
⸻
「理人じいちゃんや」
⸻
病室に小さな笑いが広がる。
⸻
最後に歩夢を見る。
⸻
「歩夢」
⸻
「はい」
⸻
「お前は優しい子になれ」
⸻
歩夢は何度も頷く。
⸻
「はい」
⸻
理人は満足そうに笑った。
⸻
窓の外。
飯山の雪は静かに降り続いている。
⸻
理人は最後に小さく呟いた。
⸻
「ええ人生やった」
⸻
そして。
⸻
「みんな」
⸻
「ありがとう」
⸻
その言葉を最後に。
理人は静かに目を閉じた。
⸻
誰も叫ばなかった。
誰も取り乱さなかった。
⸻
ただ。
病室にいた全員が泣いていた。
⸻
後日。
秋生ジムのリング脇に。
理人の言葉が額に入れられて飾られた。
⸻
「弱い人の隣に、そっと寄り添える人間になれ。」
⸻
その言葉は。
世界王者としての言葉ではなかった。
⸻
一人の人間として。
苦しみも。
悲しみも。
後悔も。
乗り越えてきた理人が。
最後に残した人生の答えだった。




