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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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秋生ジムに残ったもの

 第43話「秋生ジムに残ったもの」


 理人が現役を退いたのは、三十六歳の時だった。


 光は三十七歳。


 美羽は三十五歳。


 三人とも、まだやろうと思えばリングに立てた。


 勝とうと思えば、勝てたかもしれない。


 けれど、三人はほとんど同じ時期にリングを降りた。


 理由は似ていた。


「次に渡す時が来た」


 理人はそう言った。


 光は、


「自分が殴るより、次の子を立たせる方が大事になった」


 と笑った。


 美羽は少し寂しそうに、


「怖いね。リングを降りるのって」


 と言った。


 それでも三人は、飯山の秋生ジムへ戻った。


 世界王者としてではない。


 金メダリストとしてでもない。


 指導者として。


 子どもたちの前に立つ人として。


 *


 秋生ジムの朝は早い。


 冬の飯山は、雪が音を吸い込む。


 まだ薄暗い時間に、理人はジムの鍵を開ける。


 ストーブをつける。


 リングのロープを確認する。


 床を拭く。


 ミットを並べる。


 その一つ一つが、現役時代のルーティンよりも丁寧だった。


 やがて、光が来る。


「また早いね」


「年寄りは朝が早い」


「まだ三十代でしょ」


「気持ちは七十代だ」


「早すぎる」


 二人の会話に、美羽が入ってくる。


「お兄ちゃん、また湿布の匂いする」


「昨日、若いのにミット持たされた」


「持ったの自分でしょ」


「頼まれると断れない」


「昔からそう」


 三人は笑った。


 そこへ、小学生たちが次々とやってくる。


「おはようございます!」


 光の声が飛ぶ。


「靴!」


 子どもたちが一斉に振り返る。


「そろえます!」


「挨拶!」


「おはようございます!」


「よし」


 美羽は泣きそうな顔の子に気づく。


「どうした?」


「学校で、ちょっと……」


 美羽はすぐに隣へ座る。


「練習の前に話そうか」


 理人はリングのそばで、中学生の構えを見る。


「肩が上がってる」


「はい」


「怖い時ほど肩が上がる」


「はい」


「怖いのは悪いことじゃない。怖いまま、見ろ」


「はい!」


 理人の言葉は短い。


 けれど、不思議と子どもたちには届いた。


 *


 秋生ジムは、少しずつ知られるようになっていった。


 ただ強くなる場所ではない。


 一度折れた子が、もう一度立つ場所。


 学校に行けなくなった子。


 いじめに遭った子。


 親との関係に悩む子。


 自分に自信が持てない子。


 そういう子たちが、誰かに連れられてジムへ来る。


 最初はみんな下を向いている。


 声も小さい。


 グローブをつける手も震えている。


 光は言う。


「まず挨拶」


 美羽は言う。


「怖かったら怖いって言っていい」


 理人は言う。


「逃げてもいい。でも、自分からは逃げるな」


 その言葉に、子どもたちは少しずつ顔を上げる。


 ミットを打つ。


 縄跳びをする。


 転ぶ。


 笑われない。


 失敗する。


 怒鳴られない。


 また挑戦する。


 それを積み重ねていくうちに、声が出るようになる。


「お願いします」


「ありがとうございました」


 それだけで、親たちは泣いた。


 *


 やがて秋生ジムから、何人もの王者が生まれた。


 国内王者。


 アジア王者。


 世界王者。


 オリンピック代表。


 テレビ局が取材に来る。


 記者が理人に聞く。


「秋生ジムが、これほど多くのタイトルホルダーを育てた理由は何だと思いますか」


 理人は少し考えた。


「分かりません」


 記者が困った顔をする。


「分からない、ですか」


「はい」


 理人はリングを見る。


「ただ、うちでは勝ち方だけは教えません」


「では、何を?」


「負け方です」


 記者が黙る。


 理人は続けた。


「負けた時に、相手を憎まないこと」


「自分を壊さないこと」


「もう一度立てること」


「それを覚えた子は、強くなります」


 その言葉は、放送後に大きな反響を呼んだ。


 光は笑った。


「お兄ちゃん、珍しくええこと言ったね」


 理人は少し照れた。


「毎回ええこと言ってるつもりだ」


 美羽が首を振る。


「それはない」


 ジムに笑いが起きた。


 *


 年月は流れた。


 理人の髪には白いものが増えた。


 光は眼鏡をかけるようになった。


 美羽は膝にサポーターを巻くようになった。


 けれど三人は、相変わらずジムにいた。


 子どもたちからの呼び名も変わった。


「理人じいちゃん!」


 理人は眉をひそめる。


「まだじいちゃんじゃない」


「でも、じいちゃんやん!」


「否定しきれない年齢にはなった」


 子どもたちは笑う。


「光ばあちゃん!」


 光は振り返る。


「ばあちゃんって呼ぶなら、挨拶三倍やで」


「えー!」


「えーじゃない」


「光先生!」


「よろしい」


 美羽は一番人気だった。


「美羽ばあちゃん!」


「はいはい」


「絆創膏ちょうだい」


「また擦りむいたの?」


「転んだ」


「転ぶのも練習」


 そう言いながら、誰よりも優しく手当てをする。


 ジムの壁には、たくさんの写真が飾られていた。


 若い頃の理人。


 リングでベルトを掲げる光。


 勝利後に泣く美羽。


 でも、一番大きく飾られていた写真は違った。


 子どもたちに囲まれて、三人が笑っている写真だった。


 誰かが言った。


「先生たちの一番いい顔は、これですよ」


 理人はその写真を見て、少し黙った。


「そうかもしれないな」


 *


 葵も、何度か秋生ジムを訪れた。


 歩夢を連れて。


 その頃には歩夢も柔道選手として頭角を現していた。


 理人は歩夢を見ると、必ず言った。


「お母さんを超えるなら、まず礼からだ」


 歩夢は笑う。


「分かってます」


 光は歩夢の姿勢を見る。


「体幹いいね」


 美羽はすぐに言う。


「でも無理しすぎるタイプ。葵ちゃんに似てる」


 葵は苦笑する。


「やっぱり分かります?」


「分かるよ」


 美羽は笑った。


「無理する子は、だいたい目で分かる」


 歩夢はジムの子どもたちとすぐ仲良くなった。


 柔道とボクシング。


 競技は違う。


 それでも、そこに流れるものは似ていた。


 礼。


 相手への敬意。


 自分と向き合うこと。


 倒れても立ち上がること。


 葵は、秋生ジムの空気を吸うたびに思った。


 自分はここで救われた。


 あの日、母の娘としてではなく、立川葵として受け入れてもらった。


 だから今、自分も誰かを受け入れられる人でいたい。


 *


 晩年の三人は、もうジムの現場に毎日は出られなくなっていた。


 それでも、できる限り顔を出した。


 理人は八十代後半になっても、椅子に座りながら選手の足運びを見ていた。


「今の一歩、遅い」


 若い選手が驚く。


「見えてるんですか?」


「見えてる」


 光は、相変わらず挨拶と靴に厳しかった。


「世界王者になる前に、玄関を整えなさい」


 子どもたちは今でも背筋を伸ばした。


 美羽は、泣いている子の隣に座る役目を最後まで続けた。


「今日だけ頑張ろう」


 その言葉で、何人の子が救われたか分からない。


 *


 理人が八十九歳で亡くなった時、飯山の町は静かに泣いた。


 葬儀の日。


 秋生ジムの前には長い列ができた。


 世界王者。


 オリンピック選手。


 元不登校の子。


 かつていじめに苦しんだ子。


 親。


 指導者。


 記者。


 誰もが言った。


「理人先生に救われた」


 弔辞に立った元世界王者は、涙をこらえながら言った。


「先生は、勝つ方法より、立ち上がる方法を教えてくれました」


「だから私は、今でもリングを降りても生きていけます」


 それから数年後、光が九十二歳で生涯を終えた。


 光の葬儀では、教え子たちが靴をきれいにそろえて会場に入った。


 誰かが泣き笑いで言った。


「光先生に怒られるからな」


 祭壇の前には、光が最後まで使っていたホイッスルが置かれた。


 さらに翌年、美羽が九十三歳で亡くなった。


 美羽の葬儀では、かつて彼女に慰められた子どもたちが、大人になって集まった。


 一人の女性が言った。


「私はあの日、美羽先生に『今日だけ頑張ろう』と言われました」


「その今日を積み重ねて、今があります」


 *


 三人がいなくなった後も、秋生ジムは続いた。


 リングも残った。


 ミットの音も残った。


 子どもたちの声も残った。


 壁には、三人の写真が並んでいた。


 若い頃の栄光の写真ではない。


 子どもたちに囲まれて笑う写真。


 その下に、小さなプレートが掛けられた。


 ――強さとは、誰かを倒すことだけではない。


 ――誰かが立ち上がるまで、そばにいることだ。


 葵はそのプレートを見つめた。


 隣には歩夢がいた。


 歩夢は静かに手を合わせる。


「理人じいちゃん、光ばあちゃん、美羽ばあちゃん」


 葵も手を合わせた。


「ありがとうございました」


 あの日。


 自分を母の罪から切り離してくれた人たち。


 本当の強さを教えてくれた人たち。


 その人たちはもういない。


 けれど、残したものは消えない。


 秋生ジムの扉が開く。


 新しい子どもが入ってくる。


 不安そうな顔。


 小さな声。


 その子に、若いコーチが言う。


「大丈夫。まずは挨拶から」


 葵は、その声を聞いて微笑んだ。


 理人も。


 光も。


 美羽も。


 ここにいる。


 そう思えた。


 第43話「秋生ジムに残ったもの」。


 三人は、世界王者としてだけ記憶されたのではなかった。


 人を育てた人として。


 誰かの傷に寄り添った人として。


 倒れた人がもう一度立ち上がる場所を守った人として。


 飯山の秋生ジムに、その名を残した。


 そしてその強さは、次の世代へ受け継がれていった。

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