お母さん
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第41話「お母さん」
立川葵、三十六歳。
五度のオリンピックを戦い、世界の畳に立ち続けてきた。
だが、その日。
代表選考会決勝で、葵は敗れた。
相手は十六歳の高校生。
かつての自分と同じ年齢だった。
速かった。
迷いがなかった。
そして、強かった。
試合終了のブザーが鳴る。
葵は畳の上で、静かに礼をした。
悔しさはあった。
けれど、不思議と心は落ち着いていた。
オリンピック代表になれなかったら引退する。
そう決めていた。
だから、分かった。
自分はここまでだ。
試合後、葵は相手の少女へ歩み寄った。
「強かった」
少女は涙を流していた。
「立川さんに勝てるなんて……」
葵は笑った。
「私の後を託せる後輩が、やっと出てきた」
その言葉に、少女はさらに泣いた。
葵は抱きしめた。
「行ってきなさい」
「世界を楽しんできなさい」
その夜。
葵は一人でスマホを見つめていた。
連絡先。
莉央。
長い間、そこにあるだけだった名前。
葵は深呼吸して、電話をかけた。
数回の呼び出し音。
そして。
「……はい」
莉央の声だった。
少し年を重ねた声。
でも、確かに莉央の声だった。
葵はしばらく黙った。
莉央も何かを察したのか、何も言わなかった。
やがて葵は口を開いた。
「お母さん」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
二十年以上ぶりだった。
葵が莉央を、お母さんと呼んだのは。
莉央は声を出せなかった。
葵は静かに続けた。
「私、現役を引退するから」
莉央の声が震えた。
「……そう」
短い言葉だった。
でも、その中にたくさんの感情が詰まっていた。
「お疲れさま」
「本当に……本当にお疲れさま」
葵は少し笑った。
「ありがとう」
莉央は泣いていた。
電話越しでも分かるほど、声が震えていた。
「葵」
「うん」
「今まで……本当にごめんね」
葵は黙った。
莉央は続けた。
「あなたに嘘をついたこと」
「理人さんたちを傷つけたこと」
「逃げ続けたこと」
「あなたから母親を奪ったこと」
「全部、私が悪かった」
長い沈黙。
葵は窓の外を見た。
夜の街。
遠くに光る灯り。
自分が歩いてきた道。
怒りもあった。
悲しみもあった。
許せなかった時間も長かった。
でも。
今、電話の向こうにいるのは、もう過去を隠そうとしていた母ではなかった。
後悔を抱え続けて、それでも生きてきた一人の女性だった。
葵は小さく言った。
「許せたわけじゃないよ」
莉央は頷くように答えた。
「分かってる」
「でも」
葵は続けた。
「今日、お母さんって呼んでもいいかなって思った」
莉央は泣き崩れるように声を漏らした。
「ありがとう……」
「ありがとう、葵……」
葵は目を閉じた。
「私、ここまでやってきたよ」
莉央は泣きながら言った。
「見てた」
「ずっと見てた」
「あなたは本当に強かった」
「本当に、立派だった」
葵は少しだけ笑った。
「最後は負けたけどね」
莉央も泣き笑いの声で答えた。
「それでも、あなたは強いよ」
「負けた相手に道を譲れる人は、強い」
葵は、その言葉に少し驚いた。
そして、静かに微笑んだ。
「そうかな」
「そうだよ」
電話の向こうで、莉央は何度も頷いていた。
葵は言った。
「今度、歩夢と健斗と一緒に行くよ」
「引退の報告、直接する」
莉央は声を震わせた。
「待ってる」
「いつでも待ってる」
長年凍りついていた親子の会話。
その氷が、完全に溶けたわけではない。
割れた跡も残っている。
冷たさも残っている。
それでも。
その夜、葵は初めて、自分から莉央へ電話をかけた。
そして、母と呼んだ。
それは許しではなく。
過去を消すことでもなく。
ただ、長い時間の果てに、ようやく届いた一言だった。
第41話「お母さん」。
葵は現役を退いた。
世界の畳から降りた。
だがその夜、彼女はもう一つの場所へ戻った。
完全ではない。
昔の親子にも戻れない。
それでも。
お母さん。
その一言が、二十年以上止まっていた時間を、静かに動かした。




