ありがとう
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第40話「ありがとう」
オリンピック五連覇。
柔道女子48キログラム級。
立川葵。
三十二歳。
世界中の歓声が会場を包んでいた。
それでも葵は、いつもの葵だった。
表彰式を終え。
メダルを胸にかけたまま。
インタビューエリアへ向かう。
マイクが向けられる。
世界中の記者が集まる。
最初の質問。
「五度目のオリンピック金メダルです」
「今のお気持ちは?」
葵は少し笑った。
いつものように。
少し照れたような表情だった。
「まだ実感がありません」
会場が笑う。
「本当に」
「夢みたいです」
「決勝も最後まで苦しかったです」
そして。
すぐに続けた。
「でも、まず最初に言いたいのは」
「対戦してくださった選手のみなさんに感謝したいです」
記者たちが静かになる。
葵は続ける。
「決勝のブラジル代表の選手も、本当に素晴らしかった」
「開始二分で技ありを取られた時は、正直まずいなと思いました」
会場に笑いが起こる。
「でも、最後まで攻め続けてくれたからこそ、私も最後まで挑戦できました」
「本当にありがとうございました」
拍手が起きる。
さらに質問。
「ここまで長く世界の頂点に立ち続けられた理由は?」
葵は少し考えた。
そして答えた。
「一人では無理でした」
「家族」
「仲間」
「指導者」
「後輩たち」
「対戦相手」
「たくさんの人がいたからです」
歩夢のことも聞かれた。
「息子さんも観戦されていましたね」
葵の表情が少し柔らかくなる。
「はい」
「たぶん一番大きな声で応援していたと思います」
会場が笑う。
「歩夢にはいつも力をもらっています」
そして最後に。
記者が尋ねる。
「あなたにとって強さとは何ですか?」
葵は少しだけ空を見上げた。
理人。
美羽。
光。
健斗。
歩夢。
そして。
自分の人生を思い出す。
「強さって」
「勝つことだけじゃないと思います」
静まり返る会場。
「誰かを尊敬できること」
「支えてくれた人に感謝できること」
「そして、自分が間違った時に向き合うこと」
「それができる人が、本当に強い人だと思います」
インタビューは大きな拍手の中で終わった。
その映像を。
横須賀の自宅で。
莉央は静かに見ていた。
テレビの中の葵。
もう少女ではない。
母でもある。
世界王者でもある。
そして。
自分よりずっと立派な人間だった。
莉央は画面を見つめながら呟く。
「本当に強いよ」
涙がこぼれる。
「いいものを見せてくれてありがとう」
昔なら。
こんな言葉は言えなかったかもしれない。
自分の娘だ。
自分が育てた。
どこかでそんな驕りがあったかもしれない。
でも今は違う。
葵は自分の力で生きてきた。
苦しみを乗り越え。
怒りを抱えながらも前へ進み。
自分の人生を切り開いた。
莉央はそれを知っていた。
今では歩夢にも会わせてもらえる。
年に何度か。
大阪へ行くこともある。
歩夢が横須賀へ来ることもある。
「おばあちゃん!」
と走ってくる。
一緒に公園へ行く。
絵本を読む。
誕生日を祝う。
そんな時間が少しずつ増えた。
けれど。
葵との関係は違う。
元の親子には戻っていない。
「お母さん」
とは呼ばれない。
葵も必要以上に踏み込まない。
過去が消えたわけではない。
許されたわけでもない。
その事実は変わらない。
それでも。
莉央は思う。
歩夢に会わせてもらえる。
それだけで十分だと。
十分すぎるくらいだと。
テレビでは、歩夢がインタビューを受けていた。
少し照れながら答えている。
「ママ、かっこよかった!」
会場が笑う。
「ぼくもつよくなる!」
莉央も思わず笑った。
「そうかい」
「頑張れよ」
画面の中の歩夢は。
未来そのものだった。
そして莉央は思う。
自分はたくさんのものを失った。
二度と戻らないものもある。
けれど。
それでも。
こうして歩夢が笑っている。
葵が笑っている。
それだけで十分だ。
夜。
テレビが終わる。
静かな部屋。
莉央は窓の外を見る。
遠くの空に星が見えた。
小さく呟く。
「ありがとう」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
葵にか。
歩夢にか。
理人たちにか。
あるいは。
もう二度と戻らない過去にか。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
失われた時間は戻らない。
しかし。
人は、それでも前を向いて生きていける。
葵が証明したように。
歩夢が笑うように。
そして莉央もまた、そのことを少しずつ学んでいた。
第40話「ありがとう」。
許しではない。
やり直しでもない。
それでも、人は感謝を伝えることができる。
その一言が、長い人生の最後に残る光になることもあるのだった。




