まだ最強
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第38話「まだ最強」
五度目のオリンピックへ。
その言葉が、柔道界に大きく響いた。
立川葵、三十二歳。
女子48キログラム級。
最初にオリンピックの畳に立った時、葵は十六歳だった。
そこから十六年。
世界選手権。
グランドスラム。
全日本。
オリンピック。
数えきれないほどの畳に立ち、数えきれないほどの相手と向き合ってきた。
若い頃の葵は、勢いがあった。
速かった。
迷いがなかった。
相手が仕掛ける前に入り、相手が反応する前に投げる。
まさに嵐のような柔道だった。
だが、三十二歳になった葵は違っていた。
若い頃の爆発力は、少しずつ形を変えていた。
その代わりに増したものがある。
相手の圧を受け流す力。
崩れない体幹。
組み手の読み。
一瞬の重心のズレを見抜く目。
寝技に入った時の支配力。
そして絞技へ移行する時の、逃がさない強さ。
海外メディアはこう評した。
「Tachikawa is still the wall.」
立川葵は、まだ壁である。
若手選手たちは次々と挑んだ。
スピードで崩そうとする者。
パワーで押し切ろうとする者。
組み手を切って逃げる者。
寝技を避けようとする者。
だが、葵は崩れなかった。
世界選手権。
準々決勝。
相手はジョージアの若手選手。
強い圧力で前に出てくる。
序盤から奥襟を狙い、葵の姿勢を崩そうとする。
実況が叫ぶ。
「相手はかなり圧をかけてきます!」
しかし、葵は一歩も慌てない。
相手の力をまともに受けない。
半歩ずらす。
袖を切る。
足を入れる。
相手の勢いがわずかに前へ流れた瞬間、葵は小内刈りで崩した。
技あり。
そのまま寝技へ移行。
相手が逃げようとする。
だが、葵の腕が首元へ入る。
絞技。
会場が息を呑む。
相手が耐える。
しかし葵は焦らない。
角度を変える。
膝で逃げ道を塞ぐ。
最後は相手が畳を叩いた。
一本。
準決勝。
相手は韓国代表。
スピードがある。
足技の連続で葵を揺さぶる。
若い頃なら、葵も真正面からスピードで返したかもしれない。
だが今の葵は、待てる。
焦らせる。
攻めさせる。
相手が三度目の足払いを仕掛けた瞬間。
葵は支釣込足へ入った。
相手の体が浮く。
一本。
決勝。
フランス代表。
以前のオリンピック決勝を思わせるような組み手の巧者。
相手は葵の寝技を警戒し、立ち技で勝負をかけてきた。
葵は序盤、あえて受けた。
相手に攻めさせる。
組ませる。
切らせる。
観客には、互角に見えた。
だが解説者は言った。
「葵は見ています」
「相手の得意な形を、あえて出させている」
残り一分。
フランス代表が勝負に出る。
奥襟を取りに来た。
その瞬間、葵の左足が動いた。
足技。
相手の重心が崩れる。
畳に落ちる。
技あり。
そのまま抑え込み。
フランス代表は必死に逃げる。
しかし、葵の体幹は動かない。
二十秒。
試合終了。
世界選手権優勝。
またしても、葵は世界の頂点に立った。
その後も、グランドスラム大会が続いた。
パリ。
タシケント。
ブダペスト。
東京。
移動。
減量。
調整。
試合。
取材。
後輩指導。
母としての生活。
体力的には決して楽ではなかった。
それでも葵は勝ち続けた。
ある海外記者が聞いた。
「なぜ三十二歳になっても勝ち続けられるのですか?」
葵は少し考えて答えた。
「若い頃と同じ戦い方はできません」
「でも、同じ気持ちで畳に立つことはできます」
「相手を尊敬すること」
「逃げないこと」
「自分の弱さを認めること」
「それを続けているだけです」
その言葉は、世界中の柔道ファンに広がった。
オリンピック直前のグランドスラム。
決勝の相手は、勢いのあるスペイン代表だった。
二十二歳。
切れ味のある背負投。
葵を倒せる候補として注目されていた。
試合開始。
スペイン代表は果敢に攻める。
葵の懐へ飛び込む。
背負投。
葵の体が一瞬崩れる。
会場がどよめく。
だが、葵は落ちない。
畳に手をつかない。
体幹で耐える。
そして、相手が戻ろうとした瞬間。
葵はその腕を捕まえた。
寝技へ移行。
スペイン代表が必死に逃げる。
しかし、葵の足が相手の体を制する。
腕を取り、角度を変える。
絞技へ。
相手の動きが止まる。
やがて、畳を叩く音が響いた。
一本。
葵、優勝。
オリンピック直前のグランドスラムも制した。
会場は大きな拍手に包まれた。
解説者は言った。
「三十二歳」
「しかし、まだ最強です」
葵は畳の上で礼をした。
息は上がっていた。
若い頃より、回復には時間がかかる。
膝にも少し不安はある。
肩も万全ではない。
それでも、心は揺れていなかった。
五度目のオリンピック。
大会5連覇。
簡単な道ではない。
若手は追ってくる。
世界は研究してくる。
年齢は待ってくれない。
それでも葵は、逃げなかった。
控室へ戻ると、スマホにメッセージが届いていた。
理人からだった。
「まだ壁だね」
美羽から。
「でも体は大事に。無理と挑戦は違うから」
光から。
「楽しむこと、忘れないで」
葵は笑った。
そして返信した。
「はい。五度目も楽しんできます」
窓の外には、遠征先の夜景が広がっていた。
葵はグランドスラムの金メダルを見つめる。
十二歳で柔道を始めた少女。
母の過去に傷つき、自分の道を探した少女。
その少女は今、世界中の若手選手たちの前に立つ壁になっていた。
第38話「まだ最強」。
若さの勢いは、時間とともに形を変える。
だが、強さは衰えるだけではない。
積み重ねた経験。
揺るがない体幹。
相手を読む目。
そして、逃げずに畳に立つ心。
三十二歳の立川葵は、なおも世界の頂点にいた。




