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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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私を倒していきなさい

少年法の壁 スピンオフ

莉央の娘


第37話「私を倒していきなさい」


葵は再び日本を離れようとしていた。


柔道の国際大会。


女子48キログラム級。


立川葵、三十二歳。


十二歳で柔道を始めてから、二十年が経とうとしていた。


十六歳でオリンピック代表。


金メダル。


世界選手権制覇。


二度目、三度目のオリンピック。


世界の頂点に立ち続けた。


だが、葵はまだ畳を降りていなかった。


三十二歳になろうとしている今も、女子48キログラム級のトップにいた。


若い選手たちが次々と台頭する。


スピードのある選手。


パワーのある選手。


海外で鍛えられた選手。


それでも葵は崩れなかった。


技だけではない。


判断力。


読み。


組み手の駆け引き。


試合運び。


そして、相手を見失わない冷静さ。


経験が、葵の柔道をさらに深くしていた。


同時に、葵は後輩の指導にも入るようになっていた。


全日本の合宿。


若手選手たちが畳に並ぶ。


葵は技を見せる。


受け身を見る。


組み手を見る。


ただ厳しいだけではない。


一人一人の癖を見抜き、言葉を選んで伝える。


「そこ、力で押してる」


「相手を見て」


「自分の形に入る前に、相手が何をしたいか読む」


若手たちは真剣に聞いた。


葵は、ただの先輩ではなかった。


越えるべき壁だった。


そして、代表選考会。


女子48キログラム級決勝。


葵の相手は、二十歳の若手選手だった。


葵より一回り年下。


名は、杉原芽依。


大学二年生。


ジュニア時代から「次世代の本命」と言われてきた選手だった。


スピードがある。


足技が鋭い。


恐れを知らない攻めがある。


試合前。


控室の廊下。


芽依は少し緊張した顔で葵の前に立った。


「立川さん」


葵は振り向く。


「何?」


芽依は唇を結んだ。


「今日は……よろしくお願いします」


葵は、その目を見た。


緊張。


憧れ。


そして、迷い。


葵は静かに言った。


「芽依」


「はい」


「私を投げ飛ばすくらいの気持ちで来なさい」


芽依の目が揺れる。


葵は続けた。


「私は、あなたに勝ちを譲る気はさらさらない」


声は優しい。


だが、はっきりしていた。


「オリンピックに行きたいなら、私を倒していきなさい」


芽依は息を呑んだ。


葵はさらに言った。


「遠慮したら、あなたにも失礼」


「私にも失礼」


「代表の座にも失礼」


その言葉に、芽依の表情が変わる。


迷いが消えた。


芽依は深く頭を下げた。


「はい」


「全力で行きます」


葵は微笑んだ。


「それでいい」


決勝。


畳に上がる二人。


観客席は静かな緊張に包まれている。


実況席では、解説者が言った。


「立川葵は三十二歳になろうとしていますが、衰えを感じさせません」


「一方、杉原芽依は勢いがあります。ここで世代交代を狙いたい」


礼。


開始。


芽依は序盤から前に出た。


袖を取りにくる。


足を飛ばす。


葵は下がらない。


受ける。


外す。


見る。


芽依のスピードは本物だった。


一瞬でも気を抜けば持っていかれる。


だが、葵は落ち着いていた。


若さの勢いを、正面から受けない。


少しずらす。


呼吸を合わせない。


芽依の攻めを受けながら、葵は心の中で思った。


いい。


本気で来ている。


代表になりたいという気持ちが伝わる。


だからこそ、自分も本気で返す。


中盤。


芽依が内股に入る。


鋭い。


会場がどよめく。


葵の体が少し浮く。


しかし、葵は崩れない。


体を捻り、着地。


すぐに組み直す。


芽依の表情に悔しさが走る。


葵は小さく言った。


「いい技」


芽依は一瞬驚いた。


試合中に褒められたのだ。


だが、すぐに目を鋭くした。


再び前へ出る。


残り一分。


芽依が奥襟を取りに来た。


葵はその瞬間を待っていた。


袖を引く。


足を入れる。


体を回す。


芽依の重心が崩れる。


小内刈り。


芽依が畳に落ちた。


技あり。


会場が沸く。


芽依はすぐ立ち上がる。


諦めない。


最後まで攻める。


葵も逃げない。


残り時間。


芽依は何度も技を仕掛けた。


葵はすべて受け、いなし、時には返しながら、最後まで向き合った。


試合終了。


葵の勝利。


代表の座は、またしても葵のものとなった。


芽依は畳に膝をつき、悔し涙を流した。


葵はすぐに歩み寄った。


「芽依」


芽依は顔を上げる。


葵は手を差し出した。


「強かった」


芽依は涙を拭いながら、その手を握った。


「悔しいです」


葵は頷く。


「それでいい」


「その悔しさを、次に持ってきなさい」


芽依は泣きながら頷いた。


「はい」


葵は言った。


「私はまだ畳に立つ」


「でも、あなたが本当に私を倒す日も来ると思ってる」


「その日まで、手を抜かない」


芽依は深く頭を下げた。


その様子を、観客席の誰もが見ていた。


勝者と敗者。


先輩と後輩。


現役王者と次世代。


そこには、ただの勝ち負けではないものがあった。


夜。


出発前の空港。


葵は海外遠征用のバッグを肩にかけていた。


健斗と歩夢が見送りに来ている。


歩夢はもう小学生になっていた。


「ママ、また勝つ?」


葵は笑った。


「勝つために行くよ」


歩夢は真剣な顔で言った。


「でも、けがしないでね」


「うん。ありがとう」


健斗が言う。


「無理はするなよ」


葵は苦笑した。


「それ、毎回言うね」


「毎回心配してるからな」


葵は頷いた。


「行ってきます」


搭乗ゲートへ向かう前、葵は一度振り返った。


十二歳で柔道を始めた。


あの時は、自分がここまで来るとは思っていなかった。


母の過去から逃げたかったわけではない。


自分がどう生きるかを選びたかった。


そして今。


後輩に越えられる日を待ちながら、それでも簡単には譲らない。


それが葵の今の強さだった。


第37話「私を倒していきなさい」。


強い先輩とは、後輩に道を譲る人ではない。


全力で壁になり、その壁を越えさせる人である。


葵は、世界の頂点に立ち続けながら、次の世代にも本気で向き合っていた。


勝ちを譲らないこと。


本気で戦うこと。


それもまた、後輩への最大の敬意だった。

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