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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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麻婆豆腐

少年法の壁 スピンオフ

莉央の娘


第35話「麻婆豆腐」


神谷鐵工所の玄関先で、歩夢が莉央の手を握っていた。


莉央は、まだ涙を拭いきれないまま、小さな手の温もりを感じていた。


三歳の手。


柔らかくて、小さくて、何も知らない手。


その手が、自分を「おばあちゃん」と呼んだ。


莉央は何度も息を整えた。


そして、少しぎこちなく笑った。


「外に食べに行こうか」


葵が顔を上げる。


莉央は続けた。


「この日のためにね、中華のお店を予約しておいたんだよ」


「工場から一つ道路を挟んだ筋にある、小さなお店だけど」


健斗が葵を見る。


葵は少し迷った。


まだ、長く一緒にいることが怖い。


気持ちは整理できていない。


けれど、歩夢が莉央の手を離そうとしない。


葵は小さく頷いた。


「……分かった」


莉央は、嬉しそうに、でもそれを大きく出しすぎないように頷いた。


「ありがとう」


四人は神谷鐵工所を出た。


古びた工場の前を抜け、道路を一つ渡る。


昔からある町中華。


赤いのれん。


少し色褪せた看板。


店の入口には、昼時を少し外しているのに客が何組かいた。


莉央が戸を開ける。


「予約していた神谷です」


奥のテーブル席へ案内される。


歩夢はきょろきょろ店内を見回した。


「いいにおいする」


莉央が笑う。


「お腹すいたかい?」


「うん」


葵は、その声を聞きながら、少しだけ胸が痛んだ。


こんな普通の会話。


本来なら、もっと早くあってもよかったのかもしれない。


でも、それを壊したのは莉央だった。


そして、自分もその傷の上に立っている。


注文した料理が次々に運ばれてくる。


餃子。


炒飯。


青椒肉絲。


春巻き。


そして、麻婆豆腐。


湯気が立っている。


歩夢が目を輝かせた。


「これなに?」


莉央が答える。


「麻婆豆腐だよ。ちょっと辛いから、少しだけね」


歩夢はスプーンで少しすくい、ふうふう冷まして食べた。


目を丸くする。


「おいしい!」


健斗が笑う。


「辛くないか?」


「ちょっとからい。でもおいしい」


歩夢は、スプーンでもう一口すくる。


そして、莉央の方へ差し出した。


「おばあちゃん、これおいしいよ」


莉央は固まった。


おばあちゃん。


また呼ばれた。


しかも、自分へ食べ物を差し出している。


小さな手。


小さなスプーン。


莉央は、泣きそうになりながら笑った。


「ありがとう」


スプーンを受け取らず、自分のれんげで麻婆豆腐を少し取る。


「ほんとだ。おいしいねぇ」


歩夢は満足そうに笑った。


その光景を見て、葵の胸に複雑な感情が広がった。


怒りは消えていない。


許したわけではない。


けれど。


歩夢が莉央に麻婆豆腐を差し出す姿を見て、葵はふと思い出した。


お母さん、麻婆豆腐好きだったよな。


昔、家で中華を食べに行く時、莉央はよく麻婆豆腐を頼んでいた。


「辛いけど、これがええんよ」


そう言って笑っていた。


その記憶が、不意に胸の奥から浮かび上がる。


葵は視線を落とした。


怒りだけでは語れない。


憎しみだけでは割り切れない。


自分が失った母との時間の中にも、確かに温かかった瞬間はあった。


それがまた、苦しかった。


会話はぎこちなかった。


健斗が間をつなぐように、歩夢の幼稚園の話をする。


莉央は相槌を打つ。


葵は必要なことだけ答える。


「大阪で暮らしてるんだね」


「うん」


「柔道は今も?」


「指導も少ししてる」


「そうかい」


それだけ。


昔のようには話せない。


母娘の会話には戻らない。


けれど、莉央はその一言一言を噛み締めるように聞いていた。


二十年ぶりに聞く娘の声。


ニュースでもインタビューでもない。


画面越しでもない。


目の前で、自分に向かって返ってくる声。


たとえ短くても。


冷たさが残っていても。


それでも莉央にとっては、奇跡のようだった。


莉央は歩夢に聞いた。


「歩夢くんは、何が好きなの?」


歩夢は元気よく答える。


「しんかんせん!」


莉央が笑う。


「新幹線かい」


「あと、ママのじゅうどう!」


健斗が笑う。


「毎回真似して転がってるんですよ」


歩夢が得意げに言う。


「ぼくもつよくなる」


葵が少し笑った。


「まずはちゃんと受け身からね」


その笑顔を見て、莉央は一瞬、息を止めた。


葵が笑った。


自分の前で。


ほんの少しだけ。


それだけで、胸がいっぱいになった。


食事が終わる頃。


歩夢は満腹で少し眠そうになっていた。


莉央は店員に会計を頼む。


葵が財布を出そうとすると、莉央は首を振った。


「今日は払わせて」


葵は少し迷ったが、財布をしまった。


「……ありがとう」


その「ありがとう」に、莉央は目を伏せた。


「こちらこそ」


店を出ると、夕方の横須賀の空が少し赤く染まっていた。


歩夢は健斗に抱っこされ、眠そうに目をこすっている。


莉央はその横顔を見つめた。


会えた。


話せた。


一緒に食事ができた。


それだけで十分だった。


いや、本当は十分ではない。


もっと話したかった。


もっと聞きたかった。


葵のこと。


歩夢のこと。


これまでの二十年のこと。


でも、それを求めすぎてはいけない。


今日この場に来てもらえたことだけで、どれほど大きなことか。


莉央はそれを分かっていた。


葵は店の前で立ち止まった。


「今日は、歩夢に会ってくれてありがとう」


莉央は首を横に振る。


「会わせてくれて、ありがとう」


二人の間に、また沈黙が落ちる。


でも、それは以前のような完全な断絶ではなかった。


薄い氷の上に、ほんの少しだけ日が差したような沈黙だった。


第35話「麻婆豆腐」。


母娘の距離は、まだ遠い。


許しはない。


傷も消えていない。


けれど、歩夢の小さな手と、湯気の立つ麻婆豆腐が、二十年閉じていた時間に小さな隙間を作った。


その隙間から、ほんの少しだけ、懐かしい声が聞こえた。

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