横須賀のおばあちゃん
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第34話「横須賀のおばあちゃん」
歩夢が三歳の誕生日を迎えた。
大阪駅。
夏の朝。
ホームに停車した新幹線へ、三人が乗り込む。
立川葵。
夫の篠田健斗。
そして、小さな歩夢。
窓際に座った歩夢は、外を眺めながら足をぶらぶらさせていた。
「しんかんせん、はやい?」
葵は笑った。
「速いよ」
「どこいくの?」
歩夢が聞く。
葵は少し考えてから答えた。
「歩夢にはね、まだ会ったことのないおばあちゃんがいるの」
歩夢は首を傾げた。
「おばあちゃん?」
「そう」
「今日、会いに行くんだよ」
歩夢はまだよく分かっていない様子だった。
「ふーん」
そして窓の外へ興味が戻る。
葵はその横顔を見つめた。
いつか。
全部を話す時が来る。
自分のこと。
母のこと。
理人たちのこと。
横須賀で起きたこと。
その時、歩夢が何を思うかは分からない。
でも、隠したくはなかった。
だから今日、この場所へ向かう。
数時間後。
横浜を過ぎる。
横須賀線へ乗り換える。
車窓から見える景色が、少しずつ記憶を呼び起こした。
中学時代。
あの日々。
苦しかった日。
怒りに震えた日。
全部が蘇る。
健斗は何も言わず、そっと葵の手を握った。
葵は小さく笑った。
「大丈夫」
「うん」
健斗も頷く。
そして。
横須賀駅。
ホームへ降り立った瞬間。
葵は足を止めた。
二十年ぶりだった。
小学校卒業以来。
帰ってくるつもりなどなかった町。
それでも。
今日だけは来なければならなかった。
駅前からタクシーに乗る。
運転手に告げる。
「神谷鐵工所までお願いします」
走り出した車窓から見える街は、少し変わっていた。
新しい建物。
消えた店。
でも。
ところどころ昔の面影も残っている。
歩夢は外を見ながらはしゃいでいる。
「おおきいクレーン!」
葵は思わず笑った。
「ほんとだね」
やがて。
タクシーは古い工場の前で止まった。
神谷鐵工所。
看板は色褪せていた。
建物も古くなっている。
かつては賑やかだった工場。
今は従業員も減り、静かだった。
葵は事前にメールを送っていた。
そこで待っていてほしい。
莉央は了承していた。
葵は歩夢の手を握る。
そして。
玄関のドアベルを押した。
ピンポーン。
懐かしい音。
しばらくして。
ドアが開いた。
そこにいたのは。
白髪が増えた女性だった。
背中は少し丸くなっている。
顔にも歳月が刻まれていた。
でも。
間違いなく莉央だった。
二十年ぶりの対面。
お互い、しばらく言葉が出なかった。
最初に口を開いたのは健斗だった。
深く頭を下げる。
「初めまして」
「篠田健斗です」
「葵の夫です」
莉央も慌てて頭を下げた。
「どうも……」
声が震えていた。
歩夢が葵の後ろから顔を出す。
葵はしゃがんだ。
「歩夢」
「この人が、歩夢の横須賀のおばあちゃん」
歩夢はきょとんとする。
「おばあちゃん?」
まだよく分かっていない。
莉央は苦笑した。
「私がおばあちゃんって言ってもいいのかねぇ……」
その言葉には、自嘲も混じっていた。
葵は静かに答えた。
「歩夢にとっては、おばあちゃんだから」
莉央は歩夢を見つめた。
そして小さく笑った。
「葵さんの幼い頃にそっくりだ」
目を細める。
遠くを見るような目だった。
「懐かしいねぇ……」
葵は黙った。
少し沈黙が流れる。
やがて葵は言った。
「私は今でも許せない気持ちが強い」
莉央は黙って聞く。
「理人さんたちを傷つけたこと」
「隠し続けたこと」
「私に嘘をついていたこと」
「その気持ちは変わらない」
莉央は静かに頷いた。
否定しなかった。
言い訳もしなかった。
葵は続けた。
「でも」
歩夢を見る。
「歩夢には祖母に会う権利がある」
「私に、その権利を奪う権利はないと思った」
莉央の目が潤む。
「そうかい……」
そして小さく頭を下げた。
「あなたが怒るのも無理ない」
「私が悪いからね」
声はかすれていた。
「本当に」
「私が悪かった」
葵は何も言わなかった。
許してはいない。
でも、昔のような怒りだけでもなかった。
莉央は続ける。
「でもね」
「あなたが活躍する姿は、ずっと見てたよ」
葵が顔を上げる。
「オリンピックも」
「世界選手権も」
「結婚式も」
「歩夢くんが生まれたことも」
莉央は少し笑った。
「テレビ越しだったけどね」
その笑顔は寂しかった。
「応援してましたよ」
「ずっと」
歩夢が莉央の顔を見上げる。
「おばあちゃん?」
莉央は驚く。
歩夢は首を傾げていた。
「おばあちゃん、ないてるの?」
莉央の涙が一筋流れた。
慌てて拭く。
「ごめんね」
「嬉しくてね」
歩夢は小さな手を伸ばした。
そして。
莉央の手を握った。
「ないてもいいよ」
三歳児らしい無邪気な言葉だった。
その瞬間。
莉央は声を上げて泣いた。
二十年間。
聞きたくても聞けなかった言葉。
触れたくても触れられなかった温もり。
その小さな手が。
凍りついた時間を、少しだけ溶かした。
葵はその光景を見ていた。
許したわけではない。
きっとこれからも完全には許せない。
でも。
歩夢が握ったその手を見ていると。
人生には、怒りだけでは語れない時間もあるのだと思った。
第34話「横須賀のおばあちゃん」。
二十年ぶりの再会。
失われた時間は戻らない。
壊れた信頼も元には戻らない。
それでも。
歩夢という新しい命が、止まっていた時計を少しだけ動かし始めていた。




