祖母という席
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第33話「祖母という席」
葵も、悩んでいた。
歩夢が生まれてから、その思いは少しずつ大きくなっていた。
母である莉央のこと。
自分を裏切った人。
理人や美羽を傷つけた人。
長い間、過去を隠し続けた人。
葵は、今でも莉央を許していなかった。
その気持ちは変わらない。
けれど、歩夢を抱いていると、別の思いも浮かんだ。
この子にとって、莉央は祖母なのだ。
自分が莉央を母と思えなくても。
歩夢にとっては、血のつながった祖母。
その存在を、自分の怒りだけで完全に奪っていいのだろうか。
葵は、そのことを夫に話した。
夜。
歩夢が眠ったあと。
夫は、黙って最後まで聞いてくれた。
葵は言った。
「私は、まだ許してない」
「たぶん、簡単には許せない」
「でも、歩夢が物心ついた時に、おばあちゃんという存在を知らないままでいいのかって、考えてしまう」
夫は静かに頷いた。
「葵の気持ちを尊重するよ」
葵は夫を見た。
夫は続けた。
「会わせると決めてもいい」
「まだ会わせないと決めてもいい」
「ただ、葵が無理をしてまで決めることじゃない」
葵は少しだけ涙ぐんだ。
「ありがとう」
夫は歩夢の寝顔を見た。
「歩夢にとって何がいいか」
「葵にとって何がいいか」
「両方考えて決めればいい」
葵は頷いた。
その夜。
葵はスマホを開いた。
莉央の連絡先。
何年も触れていなかった名前。
削除はしていなかった。
でも、開くこともなかった。
指が震える。
それでも、葵はメールを書いた。
⸻
莉央さんへ。
突然の連絡です。
歩夢が生まれました。
ニュースで知っているかもしれません。
私は、あなたのことを今も許していません。
理人さん、美羽さん、光さんを傷つけたこと。
それを隠してきたこと。
私に嘘をつき続けたこと。
それらをなかったことにはできません。
今でも、あなたを母親として受け入れることはできません。
でも、歩夢の祖母を奪う権利は、私にはないと思いました。
歩夢が物心がついたら、あなたに会わせようと思います。
ただし、これは私があなたを許したという意味ではありません。
歩夢に会う時は、あなた自身が何をしたのか、何から逃げてきたのかを忘れないでください。
そして、歩夢には嘘をつかないでください。
立川葵
⸻
送信ボタンを押すまで、時間がかかった。
一度、画面を閉じかけた。
でも、葵はもう一度深呼吸した。
逃げない。
これは、許しではない。
自分と歩夢の未来を考えた上での、境界線だった。
葵は送信した。
横須賀。
莉央は仕事から帰り、一人の部屋で夕食を取っていた。
スマホが震えた。
差出人。
立川葵。
莉央は息を止めた。
手が震える。
何度も画面を見直す。
本当に葵からだった。
メールを開く。
読み進めるうちに、涙がこぼれた。
私は、あなたのことを今も許していません。
その言葉に胸が痛んだ。
当然だった。
許されるはずがない。
けれど、その先に続く言葉で、莉央は声を失った。
歩夢が物心がついたら、あなたに会わせようと思います。
莉央はスマホを胸に抱いた。
泣き崩れた。
歩夢に会えるかもしれない。
葵の子に。
自分にとって孫に。
しかし、それは喜びだけではなかった。
重かった。
あまりにも重かった。
葵は許したわけではない。
祖母という席を、歩夢のために一つだけ残しただけだった。
莉央は泣きながら何度も頷いた。
「嘘はつかない」
「もう逃げない」
「絶対に」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
すぐに返信を書こうとした。
ありがとう。
ごめんなさい。
会わせてくれてありがとう。
何度も打っては消した。
軽すぎる。
自分の言葉は、いつも遅すぎる。
それでも、莉央は短く返した。
⸻
葵さんへ。
連絡をありがとう。
あなたの言葉を受け止めます。
許されたとは思っていません。
歩夢くんに会える日が来るなら、その時は嘘をつきません。
私は、自分がしたことから逃げません。
ありがとう。
莉央
⸻
送信したあと、莉央はスマホを置いた。
涙は止まらなかった。
その夜、莉央は久しぶりに部屋の電気を消すのが少し怖くなかった。
未来が戻ったわけではない。
家族が戻ったわけでもない。
葵が母と呼んでくれたわけでもない。
けれど。
歩夢という新しい命を通して、細い糸が一本だけ残された。
それは許しではない。
救済でもない。
ただ、葵が選んだ優しさだった。
第33話「祖母という席」。
葵は莉央を許したわけではなかった。
だが、歩夢から祖母という存在を奪うこともしなかった。
その選択は、怒りを消したからではない。
怒りを抱えたままでも、人の未来を考えようとしたからだった。
それもまた、葵が辿り着いた強さの形だった。




