歩夢
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第32話「歩夢」
葵の結婚から、数年が過ぎた。
莉央の生活は、相変わらず静かだった。
朝起きる。
仕事へ行く。
帰る。
一人で夕食を食べる。
眠る。
その繰り返しだった。
葵から連絡はない。
達也からもない。
当然だった。
自分から連絡することもなかった。
できなかった。
ある日の昼休み。
鉄工所の休憩室で、古いテレビがついていた。
ワイドショーの芸能・スポーツニュース。
莉央は弁当を開けながら、何気なく画面を見た。
その瞬間。
アナウンサーの声が耳に入った。
「柔道金メダリストの立川葵さんが、第一子となる男の子を出産されました」
莉央の箸が止まった。
画面が切り替わる。
病院の一室。
白いおくるみに包まれた赤ちゃんを抱く葵。
隣には夫。
葵は、柔らかい笑顔を浮かべていた。
その腕の中の赤ちゃんは、小さな顔で眠っている。
鼻筋。
目元。
どこか葵に似ていた。
莉央は、息をするのを忘れた。
男の子。
葵の子ども。
本来なら、自分にとって孫だった。
初孫。
抱っこできたかもしれない命。
「おめでとう」と言えたかもしれない日。
小さな手を握れたかもしれない瞬間。
でも、自分はその場にいない。
知らせも来ていない。
テレビで知った。
また、テレビで知った。
アナウンサーが続ける。
「お名前は、歩夢くん」
画面の中で、葵が赤ちゃんを見つめながら話していた。
「優しく育ってほしいです」
「誰かが悲しみの涙を流している時」
「辛い思いをしている時」
「隣にそっと寄り添って、支えられる人になってほしい」
「そんな願いを込めて、歩夢と名づけました」
莉央の目から、涙が落ちた。
歩夢。
歩く夢。
誰かに寄り添いながら歩む人。
その名前に、葵の人生が込められていた。
理人。
美羽。
光。
飯山。
柔道。
人の痛みに寄り添うこと。
葵が選び続けてきた道。
そのすべてが、歩夢という名前に込められている気がした。
休憩室の職人が言った。
「立川葵、子ども生まれたんやな」
別の職人が笑う。
「ええ名前やな。歩夢くんか」
莉央は何も言えなかった。
自分の娘の子どもなのに。
自分の孫の名前なのに。
他人のニュースとして聞いている。
その事実が、胸に刺さった。
画面の中で、葵は赤ちゃんの頬にそっと触れていた。
その表情は、母の顔だった。
優しくて。
強くて。
守るものを見つけた人の顔だった。
莉央は、かつての自分を思い出した。
葵が生まれた日。
小さな体を抱いた時。
この子を守ろうと思った。
この子には幸せになってほしいと思った。
それなのに。
自分は、その子に嘘をつき続けた。
人を傷つけるなと言いながら、自分が傷つけた過去を隠した。
人の痛みを知りなさいと言いながら、自分は理人たちの痛みを見ないふりをした。
その結果。
葵は自分の手を離れた。
そして今。
葵は、自分の知らない場所で母になった。
ワイドショーは次の話題へ移った。
スタジオの笑い声。
別のニュース。
画面から葵の姿が消える。
莉央は、それでもしばらく動けなかった。
弁当は冷めていく。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
仕事が終わり、莉央は一人の部屋へ帰った。
玄関を開ける。
暗い部屋。
「ただいま」と言っても、返事はない。
いつものことだった。
けれどその日は、いつもより静けさが重かった。
莉央はテレビをつけた。
ニュースを探した。
もう一度、葵と歩夢の映像が流れないかと思った。
深夜のスポーツニュースで、短く取り上げられた。
赤ちゃんを抱く葵。
夫の笑顔。
「歩夢」という名前。
莉央は画面を見つめながら、そっと呟いた。
「歩夢くん……」
その名前を呼んだ瞬間、涙があふれた。
呼ぶ資格があるのか分からなかった。
祖母だと言う資格は、もうないのかもしれない。
それでも、血のつながりだけは消えない。
でも、その血のつながりよりも大切な信頼を、自分は壊した。
莉央は膝を抱えた。
「幸せに……なってね」
その声は、誰にも届かなかった。
葵にも。
歩夢にも。
だが、莉央は祈るしかなかった。
自分がそばにいなくても。
自分が会えなくても。
葵が母として笑っていられるように。
歩夢が優しい子に育つように。
誰かの涙に寄り添える人になるように。
それが、今の莉央にできる唯一のことだった。
第32話「歩夢」。
葵は母になった。
その腕に抱かれた男の子は、歩夢と名づけられた。
悲しむ人の隣に立ち、支えながら歩む人になってほしい。
その願いを聞いた時、莉央は知った。
葵は、自分が失ったはずの優しさを、次の命へ渡していた。
そして自分は、その輪の外から見つめることしかできなかった。




