畳の上の世界
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第29話「畳の上の世界」
オリンピックの舞台は、葵が想像していた以上に華やかだった。
会場には各国の旗。
観客席には色とりどりの応援。
大きな照明。
カメラ。
記者。
そして、世界中から集まった選手たち。
けれど、ただ華やかなだけではなかった。
そこには、凛とした空気があった。
競技場全体が、静かな緊張をまとっている。
誰もが国を背負い、家族を背負い、これまで積み重ねてきた時間を背負って、この場所に立っていた。
葵は畳のそばで深呼吸した。
胸の奥にワクワクがある。
同時に、少しだけ緊張もある。
手のひらは汗ばんでいた。
その時、後ろから声がした。
「葵さん」
振り返ると、理人がいた。
その隣には、美羽と光もいる。
三人は、ボクシング日本代表のコーチとして大会に帯同していた。
だが、葵の試合がある日は必ず顔を出してくれた。
美羽が笑う。
「緊張してる?」
葵は正直に頷いた。
「少し」
光が言った。
「いい緊張だよ」
理人は、葵の目を見て静かに言った。
「試合を楽しんで」
葵は少し驚いた。
「楽しむ……ですか?」
理人は頷いた。
「ここまで来た人しか味わえない空気だから」
「怖さも、緊張も、歓声も、全部含めて楽しめばいい」
美羽も続けた。
「相手も同じ場所まで来た選手。だから、ちゃんと向き合えばいい」
光は優しく言った。
「勝ちたい気持ちは大事。でも、相手を見失わないこと」
葵は三人の言葉を胸に刻んだ。
「はい」
そして予選が始まった。
初戦。
葵は南米代表の選手と対戦した。
序盤、相手は低く構え、奥襟を警戒してきた。
葵は焦らない。
足を動かす。
組み手を探る。
一瞬、相手が前に出たところを小内刈りで崩し、そのまま抑え込んだ。
一本。
二回戦。
相手は中央アジアの強豪。
力が強く、組んだ瞬間に圧力が来た。
葵は耐えた。
押されながらも、呼吸を整える。
相手の力を正面から受けない。
横へずらす。
そして、相手の足が揃った瞬間、大外刈り。
畳が鳴った。
一本。
準決勝。
相手はブラジル代表。
動きが速い。
葵は何度も組み手を切られた。
焦りそうになる。
だが、理人の言葉が浮かぶ。
楽しんで。
葵は小さく息を吐いた。
相手が速いなら、その速さを使えばいい。
開始二分半。
相手が一気に前へ出る。
葵は体を入れ替え、内股へ入る。
空気が止まったような一瞬。
相手の体が浮いた。
一本。
決勝進出。
会場が沸いた。
達也は観客席で立ち上がっていた。
祐也と一果も涙を浮かべている。
飯山のジムでも、理人たちの家族や子どもたちが中継を見守っていた。
岐阜高校の教室でも、柔道部の仲間たちが声を上げていた。
そして、横須賀。
小さな部屋で、莉央もテレビを見ていた。
画面の中の葵は、世界の畳に立っている。
莉央は何も言えなかった。
ただ、両手を握りしめていた。
決勝。
相手はフランス代表。
エリーズ・マルタン。
ヨーロッパ選手権王者。
長い手足と巧みな組み手を武器にする、48キログラム級屈指の実力者だった。
畳に上がる前、葵は目を閉じた。
理人。
美羽。
光。
達也。
祐也。
一果。
岐阜の仲間たち。
飯山の星空。
全部が胸に浮かんだ。
そして、葵は畳へ上がった。
礼。
互いに見つめ合う。
エリーズの目は鋭かった。
葵も逃げなかった。
審判の声。
「始め!」
決勝が始まった。
序盤から組み手争いが続いた。
エリーズは奥襟を狙う。
葵はそれを切る。
葵が袖を取りにいく。
エリーズが外す。
互いに一歩も譲らない。
実況が叫ぶ。
「組み手争いが激しい! どちらも簡単には持たせません!」
解説が続く。
「葵は焦っていませんね。相手の出方をよく見ています」
葵は技を繰り出しながら、相手を見る。
小内刈り。
牽制。
足払い。
袖を取り、すぐに離す。
エリーズも強い。
簡単には崩れない。
開始二分。
まだ大きなポイントはない。
観客席の緊張が高まる。
葵の額に汗が滲む。
でも、目は落ち着いていた。
開始三分。
その瞬間が来た。
エリーズが奥襟を取りに来た。
ほんの一瞬、重心が前に乗る。
葵は逃さなかった。
左手で袖を引く。
右手で襟を制する。
足を入れる。
相手の重心を刈る。
足技。
エリーズの体が崩れる。
畳へ背中が落ちる。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
審判の手が上がった。
「一本!」
会場が爆発した。
実況。
「一本! 一本です!」
「立川葵、オリンピック優勝!」
「十六歳、日本柔道女子48キログラム級、金メダルです!」
葵は一瞬、動けなかった。
本当に決まったのか。
本当に勝ったのか。
エリーズが立ち上がる。
葵はすぐに歩み寄った。
深く礼をする。
エリーズも涙を浮かべながら、葵の手を握った。
葵は言った。
「Thank you. You are very strong.」
エリーズは微笑んだ。
「You too. Congratulations.」
その瞬間、葵の涙がこぼれた。
観客席では達也が泣いていた。
祐也と一果も抱き合っていた。
理人、美羽、光も立ち上がって拍手していた。
美羽は涙を拭いながら言った。
「やった……」
光も頷く。
「本当にやったね」
理人は静かに笑った。
「楽しめたみたいだな」
葵は畳の上で、両手を胸に当てた。
金メダル。
でも、それだけではなかった。
相手を尊敬して戦えた。
怖さから逃げなかった。
自分を見失わなかった。
それが嬉しかった。
横須賀の部屋。
莉央はテレビの前で崩れ落ちるように泣いていた。
「葵……おめでとう……」
またしても、その言葉は届かない。
けれど、画面の中の葵は、まっすぐ前を向いていた。
母の過去ではなく、自分の未来を選んだ少女が、世界の頂点に立っていた。
第29話「畳の上の世界」。
華やかなオリンピックの舞台。
凛とした空気。
緊張と高揚。
そのすべてを味わいながら、葵は世界の畳に立った。
そして、一本勝ちで金メダルを掴んだ。
強さとは、相手を見下すことではない。
相手を尊敬しながら、自分の力を出し切ること。
葵は、その答えを世界の舞台で示した。




