おめでとうが言えない
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第27話「おめでとうが言えない」
葵は、全国共通一般常識テストで全国一位になったことを、自分のSNSに投稿した。
――
全国共通一般常識テストで、全国一位を取ることができました。
インターハイ優勝も嬉しかったけれど、今回の結果も本当に嬉しいです。
理人さんから「世界を目指すなら、世界のことを知らないといけない」と言われて、勉強の意味が少し変わりました。
柔道も、勉強も、相手を尊敬するため。
世界を知るため。
これからも頑張ります。
――
写真には、柔道着姿の葵と、机に置かれた参考書が映っていた。
その投稿を、莉央は見つけた。
立川葵。
もう神谷ではない。
画面の中の葵は、まっすぐな目をしていた。
インターハイ優勝。
全国共通テスト一位。
理人や美羽、光と出会い、自分の道を見つけて、ここまで来た。
莉央はスマホを握りしめた。
「ここまで……立派に……」
涙がこぼれた。
おめでとう。
そう書きたかった。
たった一言でいい。
でも、指は動かなかった。
葵は言った。
もう関わらないでください。
手紙も送らないでください。
会いに来ないでください。
その境界線を破ることは、また葵を傷つけることになる。
莉央は、コメント欄を開いたまま固まっていた。
何も書けない。
母親なのに。
娘の快挙に、おめでとうすら言えない。
その現実が、莉央の胸に深く刺さった。
やがて、恭介と絵梨奈も亡くなった。
鉄工所を維持するため、恭介は老いた体に鞭を打って働き続けた。
絵梨奈も無理を重ねた。
だが、体は限界だった。
相次いで倒れ、短い間に二人ともこの世を去った。
葬儀は静かだった。
親族は来た。
従業員も来た。
けれど、葵も達也も来なかった。
莉央は、それを責めることができなかった。
葵にとって、恭介と絵梨奈もまた、理人たちの痛みを軽く見た大人だった。
会いたくない。
その気持ちを、莉央は否定できなかった。
葬儀が終わった夜。
莉央は一人で部屋に戻った。
玄関の鍵を開ける。
中は真っ暗だった。
昔は、家に帰ると明かりがついていた。
葵の声がした。
「お母さん、おかえり」
達也の声がした。
「遅かったな」
今は何もない。
自分で電気をつける。
ただいま、と言いかけて、口を閉じる。
返ってくる声はない。
おかえりは、もうない。
莉央は靴を脱ぎ、リビングへ入った。
テーブルの上には、一人分の夕食。
冷たい惣菜。
湯気のない味噌汁。
音のない部屋。
スマホを開くと、また葵の投稿が見えた。
たくさんの人が祝福していた。
――葵さん、おめでとう!
――柔道も勉強もすごい!
――理人さんたちの背中を見て育ったんだね。
莉央は画面を見つめたまま、涙を流した。
あの背中を見せるはずだったのは、自分だったのかもしれない。
母として。
人として。
でも、莉央は逃げた。
嘘をついた。
隠した。
そして葵は、自分ではなく、理人たちの背中を見て育っていった。
それは嬉しいことでもあった。
葵がまっすぐ育っている。
それは確かに救いだった。
でも同時に、莉央にとっては罰でもあった。
その成長を、母として祝えない。
そばで見守れない。
声をかけられない。
葵の人生から、自分の席は消えていた。
莉央はソファに座り込んだ。
部屋の明かりはついている。
それなのに、心の中は暗かった。
仕事が終われば、帰る家はある。
でも、迎えてくれる人はいない。
両親もいない。
夫もいない。
娘もいない。
残ったのは、支払いと、仕事と、記憶だけだった。
莉央はスマホを胸に抱いた。
「葵……おめでとう……」
声に出した。
でも、その言葉は部屋の中で消えただけだった。
届かない。
送れない。
返事もない。
莉央は初めて、本当の意味で知った。
人を傷つけた過去は、相手の人生だけでなく、自分の未来の声までも奪うのだと。
第27話「おめでとうが言えない」。
葵は前へ進んでいた。
柔道でも、勉強でも、自分の道を選び始めていた。
一方で莉央は、娘の成長を遠くから見ることしかできなかった。
祝福の言葉さえ送れない距離。
それが、莉央が逃げ続けた過去の代償だった。




