世界を知るために
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第26話「世界を知るために」
それから、時は流れた。
立川葵は高校一年生になった。
進学先は、岐阜県立岐阜高等学校。
県内でも屈指の進学校だった。
入学式の日。
葵は校門の前に立ち、少しだけ深呼吸した。
中学三年間、柔道を続けた。
何度も投げられた。
何度も悔し泣きした。
それでも、やめなかった。
誰かを傷つけるためではなく、誰かを守れる人になるために。
その思いは変わっていなかった。
高校でも、葵は柔道部に入った。
勉強との両立は簡単ではなかった。
朝練。
授業。
課題。
放課後練習。
帰宅してからの勉強。
体は何度も悲鳴を上げた。
だが、葵は逃げなかった。
そして高校一年の夏。
葵はインターハイの畳に立っていた。
決勝。
相手は全国屈指の強豪校の二年生。
組み合った瞬間、力の差が伝わってくる。
簡単には崩れない。
相手も葵を研究していた。
序盤、葵は何度も攻め手を潰された。
焦りが出そうになる。
だが、その時、葵は理人の言葉を思い出した。
焦るな。
相手を見ろ。
自分を見失うな。
葵は呼吸を整えた。
そして、相手が一瞬前へ出たところを逃さなかった。
足を入れる。
体を寄せる。
相手の重心を崩す。
技が決まった。
会場に歓声が上がる。
一本。
葵はインターハイ優勝を果たした。
表彰台の真ん中。
首にかけられた金メダル。
葵は、ふと遠くを見る。
ここまで来た。
でも、ここで終わりではない。
葵は思った。
オリンピックに出たい。
世界で戦いたい。
理人や美羽や光が立った場所へ、自分も行ってみたい。
その思いを、葵は飯山へメールで伝えた。
すでに理人は現役を引退していた。
世界王者としての防衛記録も、オリンピック三連覇も、すべて伝説になっていた。
今はコーチとして、後進を育てている。
葵からのメールに、理人はすぐ返信をくれた。
そして、夏休みに飯山へ来た時、葵は理人とジムのベンチで話をした。
理人は言った。
「オリンピックを目指すなら、柔道だけ強ければいいわけじゃない」
葵は真剣に頷いた。
「はい」
理人は続けた。
「文武両道じゃないといけない」
「世界を目指すなら、世界のことを知らないといけない」
葵は少し驚いた。
「世界のこと?」
理人は頷く。
「相手の国のこと」
「文化」
「歴史」
「宗教」
「政治」
「経済」
「言葉」
「食事」
「国際大会で戦うっていうのは、相手を倒すだけじゃない」
「相手を理解することでもある」
葵は黙って聞いていた。
理人の声は、昔から変わらず静かだった。
でも、その言葉には重みがあった。
理人は言った。
「高校生を対象にした、全国共通の一般常識テストがある」
「夏休みにあるはずだ」
「受けてみたらいい」
葵は少し緊張した。
「私にできますか?」
理人は笑った。
「できるかどうかじゃない」
「今の自分が、どれだけ世界を知っているかを確かめるんだ」
美羽も横から言った。
「私も昔、お兄ちゃんに受けさせられた」
光が笑う。
「懐かしいね。理人が全国一位で、私が二位だった時」
葵は目を丸くした。
「すご……」
理人は少し照れたように咳払いした。
「昔の話だよ」
葵は笑った。
しかし、その言葉は胸に残った。
世界を目指すなら、世界を知る。
岐阜へ戻った葵は、勉強にさらに力を入れた。
地理。
歴史。
政治。
経済。
時事問題。
国際機関。
各国の首都。
世界の宗教。
スポーツ倫理。
環境問題。
分からないことだらけだった。
だが、葵は面白いと思った。
世界は広い。
自分が知らないことばかりだ。
柔道の相手も、ただの対戦相手ではない。
その国の歴史を背負い、家族を背負い、努力を積み重ねて畳に立つ人なのだ。
夏休み。
葵は全国共通一般常識テストを受けた。
全百問。
一問一点。
制限時間は短い。
葵は落ち着いて解いた。
柔道の試合と同じだった。
焦らない。
問題を読む。
何を問われているかを見る。
知らない問題は後回し。
取れる問題を確実に取る。
試験が終わった時、葵は大きく息を吐いた。
結果発表の日。
葵は学校のパソコン室で、結果を確認した。
全国順位。
上位百名が公表される。
葵の指が止まった。
一位。
立川葵。
岐阜県立岐阜高等学校。
得点、百点。
葵はしばらく画面を見つめた。
信じられなかった。
柔道だけではない。
勉強でも、自分が積み重ねたものが結果になった。
その日の夜。
葵は理人へメールを送った。
「全国一位でした」
すぐに返信が来た。
理人からだった。
「おめでとう。柔道でも、勉強でも、自分と向き合った結果だね」
続いて美羽。
「葵ちゃん、すごい! でもここからが大事。天狗にならないこと」
光からも届く。
「世界を知る入口に立ったね。ここからもっと広がるよ」
葵はスマホを胸に抱いた。
嬉しかった。
でも、それ以上に、背筋が伸びる思いだった。
インターハイ優勝。
全国共通テスト一位。
それはゴールではない。
世界へ向かうための入口。
葵は机に向かった。
柔道ノートの新しいページに、こう書いた。
世界を知る。
相手を尊敬する。
自分を見失わない。
そして、誰かを守れる人になる。
第26話「世界を知るために」。
葵は、母の過去から逃げるために強くなろうとしたのではない。
自分の未来を、自分で選ぶために強くなろうとしていた。
畳の上でも。
机の上でも。
葵は、世界へ向かう準備を始めていた。




