守るための技
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第24話「守るための技」
夏休みが明けた。
横須賀では、神谷家に新たな現実が突きつけられていた。
慰謝料、五千万円。
さらに、葵のための養育費として毎月五万円。
家庭裁判所で正式に取り決められた金額だった。
莉央は書類を見つめたまま、言葉を失っていた。
恭介は顔をしかめる。
「五千万……」
絵梨奈も青ざめている。
「そんな額、どうやって……」
だが、決まったものは決まった。
達也と葵を裏切ったこと。
十数年、重大な過去を隠していたこと。
そしてその結果、葵の生活環境を大きく変えたこと。
その代償だった。
最初、恭介は鉄工所の内部留保に手をつけようと考えた。
「会社の金を一時的に使えばいい」
「買い手が見つかるまでのつなぎだ」
しかし、その話が職人たちに伝わると、工場内に不安が広がった。
年季の入った旋盤。
更新時期が近い設備。
安全装置の交換。
材料費の高騰。
現場を知る職人たちは黙っていなかった。
「社長、それは違います」
ベテラン職人がはっきり言った。
「その金は、設備更新と従業員の雇用を守るための金でしょう」
別の職人も続ける。
「神谷家の問題を、会社の金で埋められたら困ります」
「こっちにも家族がいるんです」
恭介は言い返せなかった。
莉央も俯くしかなかった。
鉄工所は、神谷家だけのものではない。
そこで働く人たちの生活がある。
従業員の家族がある。
恭介たちはようやく、また同じことをしようとしていたと気づく。
自分たちの問題を、他人に背負わせようとしていたのだ。
結局、慰謝料と養育費は神谷家個人の口座から支払うことになった。
貯金は大きく減った。
生活は一気に苦しくなった。
鉄工所も、ぎりぎりの維持が続くことになる。
恭介は年老いた体で現場に立ち、莉央も作業服を着て働いた。
金属を削る音。
油の匂い。
重い材料。
その一つ一つが、莉央には代償の音に聞こえた。
一方、岐阜。
葵は中学校生活に少しずつ慣れていた。
岐阜市立岐阜西中学校。
柔道部の練習は厳しかった。
受け身。
足さばき。
組み手。
体力づくり。
最初は毎日のように畳に転がされた。
背中が痛い。
腕が痛い。
膝が笑う。
それでも葵は練習を続けた。
誰かを傷つけるためではない。
誰かを守れる人になるために。
ある日の放課後。
葵は柔道部の練習を終え、校舎裏を通って帰ろうとしていた。
夕方の校庭には、部活帰りの生徒たちの声がまだ残っている。
その時だった。
校舎裏の自転車置き場の近くから、低い声が聞こえた。
「だから、ちょっと貸してくれって言ってんだよ」
葵は足を止めた。
見ると、三年生の男子二人が、一年生の男子を壁際に追い込んでいた。
一年生は青ざめている。
財布を握りしめていた。
「でも……これ、帰りのバス代で……」
三年生の一人が舌打ちした。
「うるせぇな。明日返すって言ってんだろ」
もう一人が笑う。
「早く出せよ」
葵の胸の奥が冷たくなった。
見て見ぬふりをするな。
その言葉が、頭に浮かぶ。
母に言われた言葉ではない。
今はもう、自分自身の言葉だった。
葵は前へ出た。
「やめなよ」
三年生二人が振り返る。
「は?」
葵はまっすぐ見た。
「あんたら、そんなことして恥ずかしくないの?」
一年生の男子が驚いた顔で葵を見る。
三年生の一人が笑った。
「何だよ、一年の女か」
もう一人が肩をすくめる。
「うるせぇな。ちょっと金貸してくれって言ってるだけだろ」
葵は一歩も引かない。
「それをカツアゲって言うんだよ」
空気が変わった。
三年生の顔から笑いが消える。
「調子乗んなよ」
「女だからって容赦しねえぞ」
一人が葵へ掴みかかろうとした。
その瞬間。
葵の体が動いた。
柔道部で何度も練習した動き。
相手の腕を受け流し、体の向きを変える。
無理に殴らない。
蹴らない。
相手の勢いを使って崩す。
葵は相手の右腕を取り、関節を極めすぎないように注意しながら、動きを封じた。
三年生が悲鳴を上げる。
「痛っ、痛い痛い!」
葵は低い声で言った。
「まだやる気?」
「離せよ!」
「なら、その子から離れて」
もう一人が怒鳴った。
「このやろう!」
葵へ突っ込んでくる。
葵は一瞬怖かった。
でも足は下がらなかった。
相手の腕を引き込み、足を払う。
畳ではない。
だから強く叩きつけないように、受け流す形で地面に転がした。
三年生は尻もちをつき、痛そうに顔を歪めた。
葵はすぐに距離を取った。
追い打ちはしない。
必要以上に傷つけない。
ただ止める。
それだけだった。
二人は顔を見合わせる。
一人が捨て台詞を吐いた。
「覚えてろよ!」
そして逃げていった。
葵は追わなかった。
その場に残った一年生の男子が震えていた。
葵は息を整え、声を柔らかくした。
「大丈夫?」
男子は小さく頷いた。
「ありがとう……」
葵は首を振った。
「先生に言いに行こう」
男子は怯えた顔をした。
「でも……」
葵は言った。
「大丈夫。一緒に行く」
その言葉に、男子は少しだけ安心したように頷いた。
職員室へ向かいながら、葵の手は震えていた。
怖くなかったわけではない。
本当は怖かった。
三年生に逆恨みされるかもしれない。
面倒なことになるかもしれない。
でも。
あの時、理人と美羽のそばに立つ人がもっと早くいたら。
横須賀で、誰かが止めていたら。
そう思うと、見て見ぬふりはできなかった。
葵は職員室のドアを叩いた。
「先生、話があります」
その声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
第24話「守るための技」。
神谷家では、逃げ続けた過去が金銭と仕事の重さになって戻ってきていた。
一方で葵は、柔道で学んだ力を、誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るために使った。
倒すためではない。
止めるため。
見て見ぬふりをしないため。
葵は、自分がなりたい強さへ向かって、確かに一歩を踏み出していた。




