降るような星空
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第21話「降るような星空」
ミット打ちを終えたあと、葵はしばらくグローブを見つめていた。
重かった。
ただ手にはめただけなのに、ずしりとした重さが残っている。
葵はぽつりと言った。
「強いって、どういうことなのか……少しだけ分かった気がします」
理人が葵を見る。
「どんなふうに?」
葵は少し考えた。
「まだ完全には分かりません。でも……強い人って、誰かを倒せる人じゃない気がします」
美羽が静かに頷く。
光も黙って聞いていた。
葵は続けた。
「悲しみや苦しみを抱えている人のそばに立てる人」
「逃げずに、寄り添える人」
「そして、相手をちゃんと尊敬できる人」
葵は理人たちを見た。
「東京ドームで、理人さんも美羽さんも、勝ったあとに相手に頭を下げていました」
「それが、本当にかっこよかったんです」
理人は少し照れたように笑った。
「勝った相手を見下したら、その瞬間に自分も弱くなるから」
美羽も言った。
「リングに上がる人は、みんな怖さを抱えてる。だから相手を軽く見たら駄目なんだと思う」
光は葵の肩に手を置いた。
「葵ちゃんは、ちゃんと見てるね」
葵は首を横に振った。
「まだです。でも、そうなりたいです」
「誰かを傷つけるんじゃなくて、誰かのそばに立てる人になりたいです」
理人は静かに言った。
「それは、もう強さの入口に立ってると思うよ」
葵の目が少し潤んだ。
その後、理人が言った。
「せっかく飯山まで来てくれたんだ。少し外へ行こうか」
美羽が笑う。
「斑尾高原、連れていきたいね」
光も頷く。
「昼もきれいだけど、夜がすごいよ」
ジムのマイクロバスに乗り込み、一行は斑尾高原へ向かった。
飯山の町を抜け、山道へ入る。
窓の外には緑が広がっていた。
夏の高原。
風に揺れる木々。
遠くに連なる山並み。
葵は窓に顔を寄せた。
「きれい……」
達也も景色を見ながら言った。
「岐阜の山ともまた違うな」
祐也と一果も、穏やかな顔をしていた。
斑尾高原に着くと、空気が少し涼しかった。
夏なのに、風が軽い。
隼人とひまりは、芝生の上を走り回った。
美羽が慌てて追いかける。
「隼人、転ぶよ!」
光も笑いながら言う。
「ひまり、遠く行かない!」
その姿を見て、葵は少し笑った。
世界王者も、ここでは普通のお母さんだった。
理人が言った。
「夜になると、星がすごいんだ」
葵が顔を上げる。
「星?」
「うん。晴れていれば、降ってくるみたいに見える」
光が言った。
「夕方にもう一回来よう」
葵は頷いた。
「見たいです」
夕方。
一度ジムへ戻って休んだあと、再び斑尾高原へ向かった。
空は少しずつ色を変えていく。
青から橙へ。
橙から紫へ。
そして、夜へ。
車を降りた時、葵は息を呑んだ。
空いっぱいに星が広がっていた。
東京ドームの照明とは違う。
街の明かりとも違う。
静かな光。
小さな光。
でも、数えきれないほどの光。
まるで空から降ってくるようだった。
葵は言葉を失った。
達也も、祐也も、一果も、しばらく何も言えなかった。
隼人も、ひまりも、空を見上げたまま静かになっていた。
美羽が小さく言った。
「私、辛かった時、よく空を見てた」
葵は美羽を見る。
美羽は星を見上げたまま続けた。
「お兄ちゃんが苦しんでて、自分も何もできなくて、悔しくて」
「でも、飯山に来てから、夜空を見てると、少しだけ息ができた」
理人も言った。
「横須賀を離れた時は、全部失った気がした」
「でも、ここで少しずつ取り戻した」
光が静かに続ける。
「場所って、人を救うことがあるんだと思う」
葵は星空を見上げた。
横須賀で壊れたもの。
岐阜で始まったもの。
飯山で出会ったもの。
全部が胸の中で混ざっていた。
葵は小さく言った。
「私も……ここに来られてよかったです」
理人が頷いた。
「来てくれてよかった」
美羽も笑った。
「葵ちゃんは、もう一人で抱えなくていいよ」
光も言った。
「空が広い時は、人の心も少し広くなるからね」
葵は涙をこぼした。
悲しい涙ではなかった。
全部が軽くなったわけではない。
母のことも、神谷家のことも、まだ痛い。
でも、少しだけ呼吸ができた。
飯山の夜空の下で。
葵は、初めて自分の未来を見上げている気がした。
第21話「降るような星空」。
強さとは、誰かを倒すことではない。
誰かの痛みを見つめること。
そばに立つこと。
相手を尊敬すること。
そして、苦しみの中でも空を見上げること。
葵はその夜、斑尾高原の星空の下で、ほんの少しだけ強くなった。




