新聞の中の二人
少年法の壁 後日談 神谷莉央
第5話「新聞の中の二人」
飯山に来てから半年が過ぎた。
理人は中学一年生になり、美羽は小学四年生になった。
春が過ぎ、夏が終わり、秋が深まり始めた頃。
長野県ジュニアボクシング大会が開催された。
会場には県内各地から選手が集まっていた。
理人は静かにリングサイドに座っていた。
隣には秋生光。
少し離れた場所には会長と美羽がいる。
理人は半年間、派手な練習はしていなかった。
縄跳び。
シャドー。
フットワーク。
ジャブ。
ガード。
ミット。
何度も何度も繰り返した。
地味だった。
だが、その積み重ねは確実に体に残っていた。
光が言う。
「緊張してる?」
理人は正直に頷いた。
「うん」
光は笑った。
「そりゃそうだ」
会長も言った。
「緊張するのは当たり前だ。緊張しても動けるようになるために練習したんだろ」
理人は深呼吸した。
リングに上がる。
観客席の声が遠く聞こえた。
開始のゴング。
理人は前へ出た。
半年前なら、足がすくんでいたかもしれない。
だが今は違った。
ジャブ。
ワンツー。
ガード。
足。
呼吸。
秋生ジムで叩き込まれた基礎が、自然に出てくる。
一回戦。
判定勝ち。
二回戦。
判定勝ち。
準決勝。
技術差で圧倒。
そして決勝。
理人は最後まで冷静だった。
派手なパンチはない。
だが相手の攻撃を外し、正確に当てる。
終了のゴング。
判定は――
赤コーナー。
伊達理人。
会場から拍手が起こった。
理人はしばらく動けなかった。
自分の名前が呼ばれたことが信じられなかった。
優勝。
長野県中学一年生ミドル級王者。
半年前。
横須賀では教室の隅で目立たないようにしていた少年だった。
その理人が、県大会の頂点に立っていた。
表彰式。
金メダルが首に掛けられる。
理人は少しだけ照れたように笑った。
その姿を見て、美羽は全力で拍手した。
「お兄ちゃん優勝!」
光も笑った。
会長も静かに頷いた。
だが、その日の主役は理人だけではなかった。
小学四年女子部門。
伊達美羽。
こちらも決勝まで勝ち上がっていた。
美羽は理人とは違うタイプだった。
反応が速い。
リズムがいい。
フットワークが軽い。
そして何より楽しそうだった。
決勝戦。
最後まで動き続けた。
終了のゴング。
判定は満場一致。
優勝。
美羽は両手を上げた。
「やったー!」
会場から笑いが起きる。
光が吹き出した。
「優勝した瞬間にそれか」
美羽は嬉しそうだった。
本当に嬉しそうだった。
表彰台。
兄妹揃って金メダル。
理人は少し照れくさそうに立っている。
美羽は満面の笑みだった。
そして翌朝。
長野県内の新聞スポーツ面には、大きな写真が掲載された。
――長野県ジュニア大会
――中学一年ミドル級優勝 伊達理人
――小学四年女子部門優勝 伊達美羽
写真には兄妹が並んで写っていた。
首には金メダル。
表情には自信があった。
横須賀にはなかった表情だった。
同じ頃。
神奈川県。
中学生サッカー県大会が行われていた。
中村獅童はベンチ外だった。
背番号もない。
スタンドから試合を見るだけだった。
同じ一年生でもベンチ入りを果たした選手がいる。
試合終盤。
途中出場した一年生がゴールを決めた。
観客席が沸く。
監督も拍手する。
獅童は黙っていた。
悔しかった。
だが、どうにもならなかった。
練習はしていた。
サボっていたわけではない。
それでも届かなかった。
同じ頃。
神谷莉央。
陸上競技部。
100メートル。
200メートル。
記録は伸びなかった。
大会標準記録にも届かなかった。
県大会どころか地区大会の代表にもなれなかった。
顧問は言った。
「神谷、まだ一年生だ」
莉央は頷いた。
だが悔しかった。
最初は順調だった。
だからこそ止まった時が苦しかった。
こころも同じだった。
自由形100メートル。
自由形200メートル。
予選落ち。
順位表の下の方に名前がある。
何度見ても変わらない。
努力している。
だが結果が出ない。
そんな日々が続いていた。
その日の朝。
莉央の父親が朝刊を広げていた。
「へえ」
父親が小さく声を上げる。
莉央は牛乳を飲みながら聞いた。
「どうしたの?」
「長野のボクシング大会の記事」
父親はスポーツ面を見ていた。
「中学生の大会らしい」
莉央は何気なく新聞を覗き込んだ。
そして。
動きが止まった。
写真。
金メダル。
表彰台。
そこに写っていたのは。
伊達理人。
そして。
伊達美羽。
莉央の手からコップが滑りそうになる。
「え……」
父親が聞く。
「知ってる子か?」
莉央は答えられなかった。
理人だった。
間違いない。
少し背が伸びている。
顔つきも変わっている。
でも理人だった。
そして隣には美羽がいる。
二人とも笑っている。
横須賀では見たことがない顔だった。
父親は記事を読む。
「兄妹で優勝だって。すごいな」
莉央は何も言えない。
胸がざわついた。
同じ日の昼。
獅童も新聞を見た。
サッカー部の部室だった。
誰かが言う。
「長野のボクシング大会らしい」
新聞が回ってくる。
獅童は何気なく見た。
そして固まった。
「……は?」
そこに理人がいた。
美羽がいた。
金メダルを首に掛けていた。
獅童は思わず記事を読み返した。
伊達理人。
長野県中学一年ミドル級優勝。
伊達美羽。
小学四年女子部門優勝。
何度見ても同じだった。
獅童の胸がざわつく。
半年前。
あいつは逃げたはずだった。
そう思っていた。
だが違った。
理人は前へ進んでいた。
獅童がベンチにも入れない間に。
こころもまた、母親が読んでいた新聞で記事を見た。
目が止まる。
理人。
美羽。
金メダル。
こころはしばらく記事から目を離せなかった。
母親が言う。
「兄妹で優勝なんてすごいね」
こころは小さく答えた。
「うん」
それだけだった。
だが胸の奥では、別の言葉が響いていた。
俺は、お前らを許さない。
あの日。
黒い画面の向こうから聞こえた声。
その声の主が。
今、新聞のスポーツ面に載っている。
そして何より。
笑っている。
莉央たちは初めて気づき始める。
理人と美羽は、止まったままではなかった。
自分たちが忘れようとしていた半年の間も。
二人は前へ進んでいた。
自分たちが結果を出せずに苦しんでいる間も。
基礎を積み重ねていた。
積み重ねた結果が。
今、新聞の一面に載っている。
その夜。
莉央は自室で新聞を見つめていた。
理人の写真。
美羽の写真。
金メダル。
笑顔。
その姿は、横須賀で見た二人とはまるで別人だった。
莉央は知らなかった。
いや。
知ろうとしなかった。
生きるために飯山へ行った二人が。
そこで何を積み上げていたのかを。
第5話「新聞の中の二人」。
それは一枚の新聞記事だった。
だが、莉央たちにとっては。
忘れたことにしていた過去が。
初めて現在へ戻ってきた瞬間だった。




