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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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伸びる拳、止まる足

少年法の壁 後日談 神谷莉央


第4話「伸びる拳、止まる足」


飯山の放課後は、横須賀より少し早く夕方の色を帯びた。


山の稜線に日が傾き始めるころ、伊達理人と伊達美羽は、学校から帰るとすぐに着替え、秋生ジムへ向かった。


ランドセルと通学カバンを置く。


水筒を持つ。


靴ひもを結び直す。


そして二人は、夕方六時までジムで練習を続けた。


最初から強いパンチを打つ練習ではなかった。


縄跳び。


シャドーボクシング。


構え。


足の運び。


ガード。


ジャブ。


ワンツー。


ミット打ち。


ひとつずつ、土台を作る練習だった。


光はいつも言った。


「強く打とうとしない。まず、ちゃんと立つ」


理人は頷く。


美羽も真剣な顔で聞いていた。


「拳だけで打たない。足、腰、肩、最後に拳」


光がミットを構える。


理人は息を吐き、踏み込む。


ぱんっ。


最初は軽かった音が、少しずつ変わっていった。


ぱんっ。


ぱぁんっ。


ばしんっ。


音に重さが混じり始めた。


光の腕が、わずかに後ろへ押される。


「今のいい」


理人は息を整えた。


「ほんと?」


「うん。体重が乗ってきた」


その言葉に、理人の目が少しだけ変わった。


横須賀では、自分の体が邪魔だった。


教室にいるだけで、肩を小さくしていた。


目立たないように。


音を立てないように。


笑われないように。


けれど今は違う。


足で床を踏む。


腰を回す。


肩を入れる。


拳を出す。


自分の体を、小さく隠すためではなく、前へ出すために使っていた。


美羽もまた、変わり始めていた。


小さな体で、最初はミットに拳を当てるだけだった。


けれど、毎日続けるうちに、音が変わった。


ぱんっ。


ぱんっ。


ばしっ。


光が驚いたように目を細める。


「美羽ちゃん、今の重かったよ」


美羽は息を切らしながら聞いた。


「ほんと?」


「ほんと。手だけじゃなくて、ちゃんと足から出てた」


美羽は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見て、理人も少しだけ笑った。


秋生ジムの会長である光の父も、二人をよく見ていた。


「理人くんは我慢強いな」


練習後、会長がそう言った。


理人は少し戸惑った。


「そうですか」


「ああ。ただ、我慢するだけじゃなくて、正しい形に変えられるようになってきた」


理人は黙った。


会長は続けた。


「美羽ちゃんは、リズム感がいい。反応も早い」


美羽は目を丸くした。


「私も?」


「もちろん」


美羽は照れたように下を向いた。


光が横から言う。


「ほらね。言ったでしょ。美羽ちゃん、音の取り方うまいって」


「音?」


「ミットに当てるタイミング。ちゃんと聞いてる」


美羽は自分の拳を見た。


横須賀では、聞いていたのは怖い声ばかりだった。


兄を笑う声。


誰かが近づいてくる足音。


教室のざわめき。


けれど今、自分が聞いているのは、拳がミットに届く音だった。


怖い音ではなかった。


自分が前に進む音だった。


夕方六時。


ジムの時計が時間を告げる。


光が手を叩いた。


「今日はここまで」


美羽は少し不満そうに言った。


「もう一回だけ」


「だめ。終わる練習も大事」


「終わる練習?」


光は頷いた。


「無理して壊れたら意味ないから」


理人はその言葉を聞いて、静かにグローブを外した。


横須賀では、限界まで我慢することが当たり前だった。


でも、ここでは違う。


休むことも練習だった。


終わることも練習だった。


生きることを続けるための練習だった。


一方、横須賀。


神谷莉央たちの中学生活にも、最初の勢いがあった。


莉央は陸上部で、入部直後からタイムを縮めた。


最初の記録会では、同級生の中でも悪くない順位だった。


先輩に言われた。


「神谷、フォームいいじゃん」


莉央はその言葉が嬉しかった。


小学校の頃とは違う。


ここでは、走れば評価される。


タイムが出れば認められる。


自分の過去など誰も知らない。


莉央は、そう思っていた。


中村獅童も、サッカー部で最初は目立った。


小学校の頃から足は速かった。


練習試合では、こぼれ球を押し込んでゴールを決めた。


同級生から声が飛ぶ。


「獅童、ナイス!」


獅童は得意げに笑った。


「まあな」


中島こころも、水泳部で最初のうちは順調だった。


フォームを直されるたびに、タイムが少しずつ縮まった。


水の中にいる間は、余計な声が聞こえなかった。


こころは、それが好きだった。


三人は、それぞれに新しい場所で結果を出していた。


過去は遠くなっていた。


理人の声も、美羽の存在も、記憶の奥に沈んでいた。


けれど、伸びる時間は長くは続かなかった。


莉央のタイムは、あるところで止まった。


何度走っても、同じ数字が出る。


むしろ疲れが残る日は、少し遅くなる。


先輩に言われる。


「神谷、腕振りが硬い」


「はい」


「焦って前に出ようとしすぎ」


「はい」


分かっている。


でも直らない。


足が前に出ない。


地面を蹴っているつもりなのに、体が重い。


莉央は、ゴールラインを越えたあと、膝に手をついて息を吐いた。


記録は伸びていなかった。


同級生の一人が、少しずつ莉央のタイムに近づいてきていた。


「莉央、最近どうしたの?」


悪気のない言葉だった。


でも莉央には刺さった。


「別に」


そう答える声が、少し強くなった。


獅童も同じだった。


最初はゴールを決めていた。


けれど、練習が進むにつれ、周りのレベルが見えてきた。


上級生は体が強い。


同級生にも、技術のある選手がいる。


足の速さだけでは抜けない。


パスを受けても、次の判断が遅れる。


シュートを打つ前に詰められる。


コーチに言われた。


「中村、勢いだけで行くな」


獅童は奥歯を噛んだ。


「はい」


「周り見ろ。自分が目立つことばっか考えるな」


その言葉に、獅童の顔が一瞬こわばった。


自分が目立つことばかり。


言われたくない言葉だった。


獅童は練習後、ボールを強く蹴った。


ゴールネットに当たり、跳ね返る。


誰も褒めなかった。


こころもまた、水泳で壁にぶつかった。


最初に縮んだタイムが、ぴたりと止まった。


同じ距離。


同じ練習。


同じ水の中。


それなのに、進まない。


顧問に言われる。


「中島、後半で力んでる」


「はい」


「前半の泳ぎは悪くない。でも、タイムを意識しすぎると沈む」


こころは頷いた。


でも、水から上がると、胸の中がざわついた。


意識するなと言われても、意識してしまう。


負けたくない。


置いていかれたくない。


自分はできると思いたい。


三人は、それぞれ違う場所で、同じように焦り始めていた。


最初は順調だった。


だからこそ、止まった時に苦しかった。


伸びない理由を、自分の中に探すのが嫌だった。


努力の仕方が足りないのか。


基礎がないのか。


考え方が甘いのか。


そういう問いに向き合うより、誰かのせいにした方が楽だった。


ある日の帰り道。


莉央、獅童、こころは駅前のコンビニ近くで偶然会った。


獅童が言った。


「最近、部活だるいわ」


莉央が答える。


「分かる。こっちも記録伸びないし」


こころも小さく頷いた。


「私も」


獅童は舌打ちした。


「最初はもっといけると思ったんだけどな」


莉央は自販機の前で立ち止まった。


「うちも。なんか、同じことばっか言われる」


「周り見ろとか、力むなとか?」


獅童が言う。


莉央は少し笑った。


「それ」


こころも言った。


「水泳も同じ。力むなって言われる」


三人は笑った。


けれど、その笑いは前より少し硬かった。


うまくいかない時、人は自分を見ることを避ける。


そして、見なくていい話題を探す。


その時、獅童がふと思い出したように言った。


「そういや、伊達って今どうしてんだろ」


莉央の胸が、一瞬だけ冷えた。


こころも表情を止めた。


獅童は、すぐに軽く笑った。


「まあ、どうでもいいけど」


莉央は言った。


「長野でしょ」


こころが続ける。


「飯山だっけ」


「雪国でのんびりしてんじゃない?」


獅童はそう言って、ペットボトルのふたを開けた。


その言葉には、まだ見下しが残っていた。


逃げた相手。


弱かった相手。


そういう感覚が、無意識に残っていた。


莉央も、それを否定しなかった。


けれど、頭のどこかで黒い画面が浮かんだ。


俺は、お前らを許さない。


莉央はすぐにその記憶を押し戻した。


関係ない。


もう関係ない。


そう思おうとした。


同じ時間。


飯山の秋生ジムでは、理人がミットを打っていた。


光が構える。


理人が踏み込む。


ばしんっ。


音が変わった。


会長がリングサイドで腕を組む。


「今の、いいな」


理人は肩で息をしながら頷いた。


光も少し笑う。


「重くなった」


理人は自分の拳を見る。


「まだ全然だけど」


「まだ全然でいいよ」


光は言った。


「基礎をちゃんと積んでる途中だから」


美羽も横で練習していた。


小さな拳がミットを打つ。


ぱんっ。


ぱんっ。


ばしっ。


会長が言う。


「美羽ちゃんは、リズムが崩れにくい。いいぞ」


美羽は嬉しそうに頷いた。


「はい」


理人はその姿を見ていた。


焦りはあった。


早く強くなりたい。


もう二度と、何も言えない自分に戻りたくない。


けれど、光は何度も言った。


「焦らない」


「でも」


「焦ると、拳だけになる」


理人は黙る。


光はミットを下ろし、理人の足元を指さした。


「ここ。足が残ってると、パンチが重くなる。逃げ腰になると軽くなる」


その言葉に、理人は息を止めた。


逃げ腰。


横須賀で何度も言われた言葉とは違う。


ここでの「逃げ腰」は、責めるための言葉ではなかった。


体の使い方を直すための言葉だった。


「もう一回」


光が構える。


理人は足を置く。


床を踏む。


腰を回す。


肩を入れる。


拳を出す。


ばしんっ。


さっきより重い音が鳴った。


光のミットが後ろへ押される。


「それ」


光が言った。


「今の」


理人は息を吐いた。


美羽が横で言った。


「お兄ちゃん、すごい音」


理人は照れたように目をそらした。


「たまたま」


光がすぐに言う。


「たまたまじゃない。積み上げた音」


その言葉は、理人の胸に残った。


積み上げた音。


横須賀で壊されたものは、すぐには戻らない。


でも、毎日少しずつ積むことはできる。


一発の強さではなく。


一日の派手さでもなく。


学校が終わってから夕方六時まで。


縄跳び。


構え。


足。


息。


ミット。


その繰り返しが、理人と美羽を少しずつ変えていた。


横須賀では、莉央たちが焦り始めている。


飯山では、理人と美羽が焦らず土台を固めている。


伸びるために必要なのは、最初の勢いだけではない。


止まった時に、何を見るかだった。


自分を見るのか。


誰かのせいにするのか。


逃げた記憶にするのか。


立つための音に変えるのか。


第4話「伸びる拳、止まる足」。


理人と美羽の拳は、少しずつ重くなっていく。


一方で莉央たちの足は、見えない場所で止まり始めていた。

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