新しい居場所
少年法の壁 後日談 神谷莉央
第3話「新しい居場所」
春が来た。
神谷莉央は中学生になった。
真新しい制服。
まだ硬いローファー。
小学校より重くなった通学カバン。
知らない先輩。
知らない先生。
知らない教室。
校門の前には、入学式を知らせる看板が立っていた。
母親がスマホを構える。
「はい、笑って」
莉央は、ぎこちなく笑った。
その笑顔は、どこにでもいる新入生のものだった。
そこには、卒業前の教室で聞いた伊達理人の声など、少しも映っていなかった。
俺は、お前らを許さない。
黒い画面。
顔を見せなかった理人。
音声だけで落とされた拒絶。
入学式の日の莉央は、それらを思い出さないようにしていた。
いや、思い出す必要がないと思っていた。
小学校は終わった。
自分はもう中学生になった。
新しい生活が始まったのだ。
中学生活は、思っていた以上に忙しかった。
授業は小学校より速く進む。
教科ごとに先生が変わる。
提出物も多い。
友達関係も、最初の数週間で決まるような空気があった。
莉央は陸上部に入った。
走ることは嫌いではなかった。
校庭のトラックに立ち、スタートの合図を待つ。
笛が鳴る。
地面を蹴る。
体が前へ出る。
風が頬をかすめる。
走っている間は、余計なことを考えずに済んだ。
苦しい。
でも分かりやすい。
タイムが縮めば褒められる。
フォームが良くなれば先輩に声をかけられる。
小学校の教室のような、曖昧な笑いや、誰かを見下す空気とは違っていた。
莉央は、そこに居場所を見つけたような気がした。
中島こころは水泳部に入った。
放課後のプールには、水を切る音が響いていた。
こころは水の中にいる時だけ、周りの声が遠くなるのが好きだった。
中村獅童はサッカー部に入った。
大声を出し、ボールを追い、先輩に怒鳴られ、また走る。
彼もまた、新しい仲間の中で自分の場所を作ろうとしていた。
三人は、それぞれの部活に慣れていった。
朝練。
放課後練習。
初めての定期テスト。
部活内の上下関係。
体育祭の準備。
新しい友達との昼休み。
日々は、あっという間に過ぎていった。
そして、その慌ただしさの中で、伊達理人の言葉は少しずつ薄れていった。
最初のうちは、ふとした瞬間に思い出した。
教室が静かになった時。
先生が「人を傷つける言葉」について話した時。
誰かが「許さない」という言葉を冗談で使った時。
莉央の胸は、少しだけ冷たくなった。
けれど、それも長くは続かなかった。
人は、都合の悪い記憶を生活の奥へ押し込めることができる。
部活で疲れれば眠れる。
友達と笑えば忘れられる。
テスト前になれば、それどころではなくなる。
莉央は思った。
もう終わったことだ。
小学校の話だ。
中学には関係ない。
理人も飯山で暮らしている。
美羽もきっと新しい学校にいる。
自分たちとは、もう関係がない。
そう考えるたびに、心が少し軽くなった。
ある日の部活帰り。
莉央は、陸上部の友人たちと校門を出た。
「莉央、短距離いけるんじゃない?」
「いや、まだ先輩めっちゃ速いし」
「でもフォームきれいって言われてたじゃん」
「たまたまだって」
莉央は笑った。
その笑いは自然だった。
その瞬間、彼女は本当に忘れていた。
伊達理人の声も。
伊達美羽の涙も。
卒業前の教室に落ちた沈黙も。
忘れたのではない。
忘れたことにしていた。
一方、長野県飯山市。
伊達理人と伊達美羽も、新しい生活を始めていた。
飯山の春は、横須賀とは違っていた。
海の匂いはない。
坂の向こうに見えるのは山だった。
朝の空気は少し冷たく、遠くには雪の残る山並みが見えた。
理人は中学校に通い始めた。
最初は、教室に入るだけで体が硬くなった。
誰かが笑うと、自分のことを笑っているのではないかと思った。
背後で椅子が鳴ると、反射的に肩が動いた。
廊下で大きな声がすると、足が止まった。
横須賀での日々は、場所を変えただけでは消えなかった。
それでも、飯山の学校には、理人を追い詰める声はなかった。
彼を待ち伏せる人間もいなかった。
机に落書きされることもなかった。
それだけで、理人は少しずつ呼吸を取り戻していった。
美羽も、小学四年生になった。
三年生の夏休みに横須賀を離れ、飯山の小学校で二学期と三学期を過ごし、この春から四年生になった。
最初の頃、美羽は兄のそばを離れたがらなかった。
朝、家を出る時、何度も理人を見た。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
理人は答えた。
「大丈夫」
本当は、自分も大丈夫ではなかった。
けれど、美羽の前ではそう言うしかなかった。
美羽は飯山の学校で、少しずつ友達を作っていった。
横須賀でのことを、自分から話すことはなかった。
誰かに聞かれても、
「前は神奈川にいた」
それくらいしか言わなかった。
けれど、休み時間に誰かが大きな声でふざけたり、男子が誰かをからかう声が聞こえたりすると、美羽の肩はわずかに縮こまった。
兄のことを思い出すからだった。
そして、自分も怖かったからだった。
そんな二人にとって、秋生ジムは特別な場所になっていった。
秋生光。
理人より一つ年上の中学二年生。
両親が経営するボクシングジムの娘。
夏休みに飯山へ引っ越してきた理人と美羽を、最初にジムへ誘った少女だった。
光は、理人にとって初対面ではなかった。
伊達家が飯山へ帰省した時、理人と美羽はよく光と遊んでいた。
夏には川で足を浸し、虫取りをした。
冬には雪合戦をした。
理人がまだ横須賀で普通に笑えていた頃、光はその笑顔を知っていた。
だからこそ、飯山で再会した時、光はすぐに気づいた。
理人の表情が変わっていることに。
美羽の笑い方が、どこか遠慮がちになっていることに。
けれど光は、無理に聞かなかった。
「何があったの」と詰め寄らなかった。
「かわいそう」とも言わなかった。
ただ、ミットを構えた。
それが、二人には一番よかった。
放課後。
理人と美羽は、ランドセルと通学カバンを家に置くと、秋生ジムへ向かった。
ジムの扉を開けると、いつもの匂いがした。
革の匂い。
汗の匂い。
床を踏む音。
縄跳びの音。
ミットを打つ乾いた音。
光が振り返る。
「来たね」
美羽が言う。
「来た」
光は笑う。
「今日は縄跳びから」
美羽は少し不満そうな顔をした。
「ミットがいい」
「ミットの前に足」
「足?」
「ボクシングは手だけじゃないから」
美羽はむうっとした顔をしながらも、縄跳びを持った。
理人も隣に立つ。
ロープが床を叩く音が重なる。
たん、たん、たん。
最初はぎこちなかったリズムが、少しずつ揃っていく。
美羽は何度も引っかかった。
そのたびに、
「あー、もう」
と悔しそうな声を出す。
光が笑う。
「怒れる元気があるなら大丈夫」
「光ちゃん、笑わないで」
「笑ってない。ちょっとしか」
「笑ってる」
そのやり取りに、理人がほんの少しだけ笑った。
本当に、ほんの少しだけだった。
けれど光は見逃さなかった。
「今、笑った」
理人はすぐに真顔になる。
「笑ってない」
美羽が言う。
「笑った」
「笑ってないって」
光がミットを持ち上げる。
「はい、笑った記念にミット」
「なんだよ、それ」
「文句言わない」
理人はグローブをはめた。
最初に夏休み、光に誘われてミットを打った日のことを思い出す。
ぱんっ。
あの音が、自分の中に残っていた。
誰かを傷つけるためではない。
自分を倒れたままにしないため。
光の言葉は、今も理人の胸にあった。
「構えて」
光が言う。
理人は構える。
「息、止めない」
理人は小さく息を吐く。
ぱんっ。
ミットが鳴る。
「もう一回」
ぱんっ。
「足、逃がさない」
ぱんっ。
「いいよ」
理人の拳は、まだ強くはなかった。
速くもなかった。
それでも、夏休みの頃より少しだけ真っ直ぐになっていた。
光はその変化を感じていた。
美羽もグローブをはめる。
小さな体で、真剣にミットを見つめる。
「美羽ちゃん、いくよ」
「うん」
ぱんっ。
「いい音」
ぱんっ。
「もう一回」
ぱんっ。
美羽の顔に、少しずつ集中の色が浮かぶ。
怖がっていた目が、ミットを見据える目に変わっていく。
理人は、その横顔を見ていた。
横須賀で、美羽は兄の後ろに隠れていた。
兄を心配していた。
兄の苦しみに巻き込まれていた。
でも今、美羽は自分の足で立ち、自分の拳で音を鳴らしている。
それが理人には、何よりも救いだった。
練習後。
ジムの外で、三人は並んで座った。
春の夕方の空気は、少し冷たかった。
光が言った。
「学校、どう?」
理人は少し黙ったあと、答えた。
「まだ怖い」
光は頷いた。
「そっか」
「でも、前よりは行ける」
「それ、すごいことだよ」
理人は首を横に振った。
「普通でしょ」
光はすぐに言った。
「普通じゃないよ」
理人が光を見る。
光は続けた。
「怖い場所に行くのって、普通じゃない。すごく力がいる」
美羽が小さく頷く。
「朝、お兄ちゃん、いつも深呼吸してる」
理人は少し気まずそうに言う。
「見てたのかよ」
「見てるよ」
「見るなよ」
「妹だから見る」
光が吹き出した。
理人も、今度は少しだけ笑った。
横須賀で向けられた笑いとは違う。
誰かを見下す笑いではない。
誰かを孤立させる笑いでもない。
一緒にいることを確かめる笑いだった。
その笑いに、理人はまだ慣れていなかった。
でも、嫌ではなかった。
同じ頃。
横須賀では、莉央たちが中学生活に慣れていった。
ある日の昼休み。
莉央は廊下でこころと会った。
「部活どう?」
こころが聞く。
「きつい。でもまあ楽しい」
「うちも。水泳部、先輩怖いけど」
そこへ獅童が通りかかった。
「お前ら、まだ部活続いてんの?」
莉央が言う。
「そっちこそ」
「サッカー部なめんなよ。走り込み地獄だぞ」
三人は笑った。
その笑いの中に、理人の名前は出なかった。
美羽の名前も出なかった。
それは、意識して避けているのではなかった。
本当に、話題に上らなくなっていた。
莉央は、自分が中学生として普通に暮らしていることに安心していた。
周りは何も知らない。
誰も聞かない。
誰も責めない。
卒業前の音声だけの通話のことも、あの教室の空気も、自分から話さなければ誰も知らない。
そして、理人の言葉も、いつの間にか遠くなっていた。
俺は、お前らを許さない。
あの時は怖かった。
けれど、今はもう聞こえない。
聞こえないふりができる。
莉央はそう思っていた。
その夜。
莉央は部活で疲れ、夕飯のあとすぐに眠くなった。
机の上には陸上部の予定表が置かれていた。
週末には記録会がある。
莉央の関心は、自分のタイムだった。
明日、どれだけ走れるか。
先輩に認められるか。
友達とうまくやれるか。
それが今の莉央の世界だった。
同じ夜。
飯山の秋生ジムでは、理人が一人で縄跳びをしていた。
ロープが床を叩く音が、一定のリズムで響く。
光は少し離れたところで、その姿を見ていた。
「理人、無理しすぎないで」
理人は縄跳びを止めた。
「大丈夫」
「それ、無理してる人の言い方」
理人は少しだけ笑った。
「光姉ちゃん、うるさい」
光は目を丸くしたあと、にやりと笑った。
「お。言い返した」
「別に」
「前よりいい」
理人は顔をそらした。
そこへ美羽が水筒を持ってやってくる。
「お兄ちゃん、光ちゃんに怒られてる」
「怒られてない」
「怒られてた」
「違う」
光が笑う。
美羽も笑う。
理人は困ったように目をそらした。
でも、その口元は少しだけ緩んでいた。
この時、まだ誰も知らなかった。
秋生光が、のちに女子ボクシングのオリンピック金メダリストとなり、世界チャンピオンとなることを。
伊達美羽もまた、兄と並ぶほどの才能を開花させることを。
そして伊達理人が、インターハイ優勝、オリンピック優勝、世界王座獲得、タイトル防衛三十回という、伝説の道を歩くことを。
この時はまだ、ただの小さなジムだった。
ただの春だった。
夏休みに横須賀を離れた兄妹が、飯山で初めてグローブをはめ、そこから少しずつ立ち上がろうとしている日々だった。
横須賀では、莉央たちが忘れていく。
飯山では、理人と美羽が始めていく。
忘れる者と、忘れないまま立ち上がる者。
同じ春の空の下で、二つの人生は静かに分かれていった。
そして神谷莉央は、まだ知らない。
自分が忘れたと思った声が、いつか再び、逃げ場のない形で戻ってくることを。
第3話「新しい居場所」。
それは、加害者たちにとっては新生活の始まりだった。
けれど理人と美羽にとっては、失った呼吸を取り戻すための、長い長い一歩目だった。




