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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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空いた席

 少年法の壁 後日談 神谷莉央


 第2話「空いた席」


 夏休みが終わった。


 横須賀市立港ヶ丘小学校の校庭には、朝から子どもたちの声が戻っていた。


 日焼けした腕。


 少し伸びた髪。


 旅行先で買ったキーホルダー。


 自由研究の模造紙。


 読書感想文の束。


 夏の名残を抱えた子どもたちが、次々と校門をくぐっていく。


 六年二組の教室も、すぐにいつものざわめきを取り戻した。


 机の上には筆箱や連絡帳が並び、後ろの棚には夏休みの工作が積まれている。


 黒板の端には、担任の高石正美が白いチョークで書いた文字が残っていた。


「二学期も元気にがんばろう」


 その言葉の下。


 座席表には、ひとつの空白があった。


 伊達理人。


 その名前は、もうそこにはなかった。


 朝の会で、高石は静かに言った。


「伊達理人くんは、夏休み中に長野県飯山市へ転校しました。新しい学校でも、元気に過ごしてくれることを願っています」


 教室が少しだけざわついた。


「ほんとに転校したんだ」


「長野だって」


「飯山ってどこ?」


「雪すごそう」


 神谷莉央は、その声に混じって、机の上の筆箱を開けた。


 中には新品の消しゴムが入っていた。


 夏休み前に使っていた消しゴムは、角が丸くなりすぎて捨てた。


 新しい消しゴムは白く、四角く、何も知らない顔をしていた。


 莉央はそれを指先で転がしながら、前の席の中島こころに小声で言った。


「ほんとにいなくなったんだ」


 こころは振り返り、少しだけ肩をすくめた。


「らしいね」


「飯山って遠いのかな」


「知らない。長野でしょ」


「ふうん」


 会話はそこで終わった。


 それ以上話す必要がなかった。


 莉央にとって、伊達理人がいなくなったことは、少しだけ教室の空気が軽くなった、という程度の出来事だった。


 重いものがなくなった。


 面倒なものが消えた。


 そんな感覚だった。


 罪悪感ではない。


 喪失感でもない。


 ただ、いつも反応を見ていた相手がいなくなった。


 それだけだった。


 休み時間になると、中村獅童が男子数人を連れて莉央たちの近くに来た。


 獅童は机に腰をかけるようにして座り、面白くもなさそうに言った。


「伊達、ほんとに逃げたんだな」


 男子の一人が笑った。


「逃げたって言うなよ」


「いや逃げただろ。夏休みの間に引っ越しって、完全に逃げじゃん」


 莉央は笑った。


 こころも、口元だけで笑った。


 その笑いに、深い悪意があったわけではない。


 だからこそ、たちが悪かった。


 彼らは本気でそう思っていた。


 理人が何に追い詰められていたのか。


 家でどんな顔をしていたのか。


 両親がどれだけ苦しんだのか。


 転校という決断に、どれほどの覚悟が必要だったのか。


 何ひとつ考えていなかった。


 獅童はさらに続けた。


「つまんなくなったな」


 莉央が聞く。


「何が?」


「いや、なんかさ。反応するやついなくなったじゃん」


 その言葉を聞いても、誰も止めなかった。


 誰も眉をひそめなかった。


 むしろ数人が、分かる、と言うように笑った。


 莉央も笑った。


 その笑いは軽かった。


 軽すぎた。


 理人にとって、六年二組は毎朝息を詰めて入る場所だった。


 しかし莉央たちにとっては、ただの教室だった。


 理人が机に落書きされた日も。


 給食時間に黙っていた日も。


 体育の授業でペアを組む相手がいなかった日も。


 莉央たちにとっては、日常の小さな遊びだった。


 大事件ではなかった。


 誰かの人生を壊す行為だとは思っていなかった。


 一方、三年生の教室。


 そこにも、ひとつ空いた席があった。


 伊達美羽の席だった。


 担任は朝の会で短く説明した。


「伊達美羽さんは、夏休み中に長野県飯山市へ転校しました。新しい学校でも、元気でいてほしいですね」


 三年生たちは、六年生たちよりもさらに事情を知らなかった。


「伊達さん、引っ越したんだって」


「そうなんだ」


「お兄ちゃんも一緒なんでしょ」


「へえ」


「長野って寒いのかな」


「スキーできるんじゃない?」


 それだけだった。


 美羽の席は空いた。


 でも授業は進んだ。


 音読の順番が一つ飛ばされ、給食当番の班が組み直され、体育の列が少しだけ詰められた。


 美羽がいなくても、教室は止まらなかった。


 けれど、美羽本人にとって、横須賀の記憶はそんなに軽いものではなかった。


 兄の後ろに隠れるように歩いた廊下。


 六年生の教室の近くを通るたびに、胸がぎゅっとなる感覚。


 兄の名前を笑い声の中で聞いた時の怖さ。


 泣きそうになっても、兄の前では泣けなかった日。


 三年生の美羽もまた、傷ついていた。


 直接同じ教室にいたわけではない。


 それでも、兄が壊れていく姿を一番近くで見ていた。


 そして、妹である自分にも、その影は落ちていた。


 飯山の新しい家。


 夏休みの終わりが近づく頃、理人と美羽は二階の部屋で段ボールを開けていた。


 窓の外には、横須賀とは違う山の稜線が見えた。


 海はない。


 潮の匂いもしない。


 でも、ここでは朝起きても、あの学校へ行かなくていい。


 それだけで、二人の胸には少しだけ空気が入った。


 机の上には、新しいノートが置かれていた。


 美羽はランドセルから筆箱を取り出し、鉛筆を一本ずつ並べている。


 理人は、その様子を見ながら言った。


「新しい学校、緊張する?」


 美羽は少し考えてから頷いた。


「する」


「そっか」


「お兄ちゃんは?」


 理人はすぐには答えられなかった。


 美羽は手を止めて、兄を見る。


 理人は窓の外を見たまま言った。


「俺も、する」


 美羽は小さく頷いた。


「でも、あの学校じゃないんだよね」


「うん」


「じゃあ、少し大丈夫」


 その言葉に、理人は胸が痛くなった。


 少し大丈夫。


 小学三年生の妹が、そう言わなければならないほど、横須賀での日々は重かった。


 その日の夕方。


 二人は秋生ジムへ行った。


 夏休みの間に、光に誘われて何度か通うようになっていた場所だった。


 ジムの扉を開けると、革の匂いとミットを打つ音がした。


 光が振り返る。


「来たね」


 美羽は少しだけ笑った。


「来た」


 光はミットを持ち上げる。


「今日は軽めにしよう。明日から学校でしょ」


 理人は頷いた。


 美羽が小さなグローブをつける。


 光がしゃがんでミットを構える。


「はい、美羽ちゃん。まっすぐ」


 ぱんっ。


 美羽の拳がミットに当たる。


「いい音」


 光がそう言うと、美羽は照れたように笑った。


 次に理人がグローブをはめる。


 最初にミットを打った時の感覚は、まだ手に残っていた。


 誰かを傷つけるためではない。


 自分を倒れたままにしないため。


 光の言葉が、胸の奥に残っていた。


 理人は構える。


 光が言う。


「息、止めない」


 理人は小さく息を吐く。


 ぱんっ。


 乾いた音が鳴る。


「もう一回」


 ぱんっ。


「いいよ。足、逃がさない」


 理人は踏み込む。


 ぱんっ。


 ミットの音が、ジムの中に響いた。


 横須賀の教室では、理人の声は何度も飲み込まれた。


 言い返せなかった。


 助けてと言えなかった。


 嫌だと言えなかった。


 けれど、ミットの音だけは、自分の外へ出ていった。


 その音が、理人には少しだけ救いだった。


 練習が終わると、光はジムの前で二人に麦茶を渡した。


「明日から学校か」


 理人は頷いた。


「うん」


「怖い?」


 理人は黙った。


 光はすぐに言い直した。


「答えたくなかったら、答えなくていい」


 理人はしばらくして言った。


「怖いよ」


 美羽が兄を見る。


 理人は続けた。


「また同じだったらって思う」


 光は何も笑わなかった。


「そりゃ怖いよ」


 理人は顔を上げた。


 光は麦茶のペットボトルを手にしたまま言った。


「怖くないふりしなくていいよ。怖くても、行けたらそれでいい。無理だったら、休んでもいい」


 美羽が小さく聞いた。


「休んでもいいの?」


 光は頷いた。


「いいよ。壊れるくらいなら休んだ方がいい」


 その言葉に、理人の胸が少しだけ緩んだ。


 横須賀では、学校へ行くことが当たり前だった。


 行けない自分が弱いのだと思っていた。


 でも光は、そうは言わなかった。


 美羽は麦茶を飲みながら言った。


「光ちゃん、明日もジムある?」


「あるよ」


「学校終わったら来てもいい?」


「もちろん」


 美羽は少しだけ安心した顔をした。


 理人も、心の中で同じことを思っていた。


 明日、学校に行く。


 怖い。


 でも、終わったらここに来られる。


 そう思うだけで、少しだけ足元が見えた。


 一方、横須賀の六年二組。


 二学期は何事もなかったかのように進んでいった。


 運動会の練習。


 卒業文集の話し合い。


 委員会活動。


 修学旅行の思い出話。


 理人の名前は、日が経つにつれて教室から消えていった。


 最初の数日は、誰かが思い出したように口にした。


「伊達って今ごろ何してんだろ」


「雪国で暮らしてんじゃね」


「まだ夏だろ」


「まあどうでもいいけど」


 そのうち、名前すら出なくなった。


 莉央にとっても同じだった。


 最初は、空いた席が少しだけ目に入った。


 でも席替えが行われると、その空白も消えた。


 誰か別の机がそこに置かれ、誰か別の筆箱が置かれ、誰か別の笑い声がそこに座った。


 空白は、簡単に埋まった。


 だが、高石正美だけは違った。


 高石は、教卓から教室を見るたび、理人の席があった場所を思い出していた。


 そして、三年生の教室にいた美羽のことも。


 小さな妹まで巻き込まれていたこと。


 兄の傷を見ながら、自分も傷ついていたこと。


 そのことを思うと、高石の胸は重くなった。


 教師として何ができたのか。


 もっと早く気づけなかったのか。


 もっと強く止められなかったのか。


 その問いは、二学期になっても消えなかった。


 ある日の放課後。


 高石は職員室で、理人の転校先の学校から届いた連絡を見ていた。


 新しい学校には通えている。


 最初は緊張が強かったが、少しずつ登校できている。


 美羽も同じく、落ち着いた様子を見せている。


 その報告を読んで、高石は少しだけ息をついた。


 けれど安心はできなかった。


 通えているから大丈夫。


 笑っているから大丈夫。


 それが危険な思い込みであることを、高石はこの一件で痛いほど知った。


 三学期が近づく頃。


 卒業式の準備が始まった。


 六年二組の後ろの棚には、卒業文集の下書きが集められていた。


「小学校の思い出」


「将来の夢」


「六年間で楽しかったこと」


 そんな題名が並ぶ。


 莉央も鉛筆を握り、原稿用紙に向かっていた。


 楽しかったこと。


 運動会。


 修学旅行。


 友達と笑った休み時間。


 給食のおかわりじゃんけん。


 莉央の中に浮かぶ小学校生活は、明るいものばかりだった。


 そこに、理人の顔は出てこなかった。


 美羽の顔も出てこなかった。


 出てきても、すぐに押し戻した。


 書く必要がない。


 思い出す必要もない。


 そう思っていた。


 しかし、高石は卒業前に一つの決断をしていた。


 このまま卒業させていいのか。


 何も言わせず、何も考えさせず、ただ中学生にしていいのか。


 謝れば終わる話ではない。


 許されるための場にしてはいけない。


 それでも、自分たちが何をしたのか、その入口だけでも見せなければならない。


 高石は、伊達家に連絡を取った。


 理人本人と話すことは、簡単ではなかった。


 伊達家の両親は慎重だった。


 当然だった。


 理人を再び傷つける可能性がある。


 美羽にも影響が出るかもしれない。


 高石も、それは分かっていた。


 だから、無理には頼めなかった。


 けれど、数日後。


 理人本人から、条件付きで返事があった。


 顔は出さない。


 長くは話さない。


 謝罪を受けるつもりはない。


 許すためではない。


 それでも、一度だけなら、音声だけで話す。


 高石はその返事を読んだ時、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。


 理人は、まだ傷の中にいる。


 それでも、言葉を返そうとしている。


 それは強さではあるが、同時にどれほどの負担かも分かっていた。


 卒業式まで、あと三週間。


 六年二組の教室には、卒業制作の絵、文集の下書き、寄せ書き用の色紙が並び始めていた。


 黒板の上には、高石が貼った紙がある。


「未来へ羽ばたけ」


 神谷莉央は、その言葉を見ても何も感じなかった。


 卒業したら中学生になる。


 新しい制服を着る。


 新しい友達ができる。


 伊達理人のことも、伊達美羽のことも、もう過去になる。


 そう思っていた。


 その日の五時間目。


 高石は、いつもより早く教室に入ってきた。


 手にはノートパソコンを抱えていた。


 教卓に置き、ゆっくりと画面を開く。


 教室がざわついた。


「先生、何するの?」


「動画見るの?」


「卒業式のやつ?」


 高石は答えなかった。


 しばらくして、教室の前に立つ。


 その顔には、いつもの柔らかい笑みがなかった。


「卒業前に、どうしても話しておきたいことがあります」


 空気が変わった。


 莉央は嫌な予感がした。


 高石は静かに言った。


「伊達理人くんと、伊達美羽さんのことです」


 中村獅童が、小さく舌打ちした。


 中島こころは窓の外を見た。


 莉央は机の木目に視線を落とした。


 高石は言った。


「あなたたちは、謝りもせずに次へ行くのですか」


 誰も答えない。


「卒業すれば終わりですか」


 教室が静まり返る。


「中学生になれば、なかったことになりますか」


 高石は教室全体を見渡した。


「逃げて、逃げて、逃げて、逃げる人生を歩むのですか」


 莉央の指先が止まった。


 その言葉は、まだ胸には届かなかった。


 けれど耳には残った。


 高石は続けた。


「今日は、伊達理人くんと少しだけ話す時間を作りました」


 教室が一気にざわつく。


「え?」


「本人?」


「なんで?」


「マジで?」


 高石はノートパソコンを操作した。


「伊達くんのご家族にお願いしました。理人くん本人も、長くは話したくないと言っています。それでも今日だけ、音声だけなら話してくれることになりました」


 莉央の心臓が跳ねた。


 獅童の顔から、さっきまでの余裕が消える。


 こころも、さすがに顔を上げた。


 画面がつながる。


 だが、そこに理人の顔は映らなかった。


 黒い画面。


 中央に表示された名前。


 伊達理人。


 カメラはオフのままだった。


 教室のざわめきが、少しずつ消えていく。


 顔が見えない。


 表情が分からない。


 だからこそ、沈黙が重かった。


 高石が言う。


「伊達くん」


 スピーカーから、短い返事が聞こえた。


「はい」


 それは、横須賀にいた頃の理人の声より、少し低く聞こえた。


 教室から返事はほとんどなかった。


 誰も、黒い画面をまともに見られなかった。


 理人は、しばらく沈黙した。


 それから、静かに話し始めた。


「先生から、話を聞きました」


 その声は落ち着いていた。


 でも、冷たかった。


「卒業前に、みんなと一度だけ話してほしいって」


 短い間が空く。


「正直、話したくありませんでした」


 教室の空気が重くなる。


「俺は今、飯山にいます。前より眠れます。学校にも行けています」


 その言葉に、高石の表情がわずかに揺れた。


 理人は続けた。


「でも、それは横須賀であったことが消えたという意味じゃありません」


 莉央は息を止めた。


「俺は、あの日々を忘れていません」


 理人の声は大きくなかった。


 怒鳴ってもいない。


 だからこそ、教室によく響いた。


「美羽が泣いたことも、忘れていません」


 莉央の頭に、小学三年生の美羽の顔がよぎる。


 兄の後ろに隠れるように立っていた小さな女の子。


 何か言いたそうにして、それでも言えなかった顔。


 莉央はそれを振り払うように、机の下で拳を握った。


 理人は続けた。


「先生は、謝りたい人がいるかもしれないと言いました」


 誰も口を開かない。


 莉央も。


 獅童も。


 こころも。


 誰一人として。


 理人は、その沈黙を音で聞いていた。


 そして、静かに言った。


「俺は、お前らを許さない」


 教室が凍った。


「謝られても、今の俺は許せない」


 誰も動けない。


「俺だけじゃない。美羽も傷ついた。父さんも母さんも傷ついた。家族みんなが、横須賀を離れるしかなかった」


 理人は言葉を切った。


「俺たちは逃げたんじゃない」


 その一言に、獅童がわずかに顔を上げた。


 理人は続けた。


「生きるために、離れたんです」


 教室に、音が消えた。


 椅子もきしまない。


 誰も咳払いすらしない。


「だから、俺はお前らを許さない」


 理人はもう一度、はっきり言った。


「許すために、ここにいるわけじゃない」


 高石も何も言えなかった。


「俺から話すことは、これだけです」


 黒い画面の向こうで、理人がどんな顔をしているのかは分からない。


 泣いているのか。


 怒っているのか。


 無表情なのか。


 何も分からない。


 けれど、その声だけで十分だった。


「さようなら」


 その直後、理人は自分で接続を切った。


 画面から名前が消える。


 ノートパソコンの小さなファンの音だけが、教室に残った。


 誰も喋らない。


 莉央は、黒い画面を見つめていた。


 そこには最初から、理人の顔など映っていなかった。


 けれど、さっきの言葉だけが残っていた。


 俺は、お前らを許さない。


 高石正美は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに口を開いた。


「今のが現実です」


 誰も顔を上げない。


「謝れば終わると思っていた人がいるなら、考え直してください」


 高石の声は震えていた。


「傷つけられた側には、許さない権利があります」


 莉央の喉が詰まった。


 でも、涙は出なかった。


 獅童は机を睨んでいた。


 こころは唇を噛んでいた。


 高石は続けた。


「あなたたちは、今日、許されませんでした」


 その言葉は残酷だった。


 でも、事実だった。


「それでも卒業は来ます。中学にも進みます。人生は続きます」


 高石は教室を見渡した。


「だからこそ、覚えておきなさい」


 黒くなった画面を指さす。


「逃げても、あの言葉は消えません」


 誰も返事をしなかった。


 その日の放課後。


 教室はいつもより静かだった。


 誰も理人の名前を出さなかった。


 誰も美羽の名前を出さなかった。


 けれど、出さないことが、かえってその名前を濃くしていた。


 莉央は帰り道、ランドセルを背負ったまま、何度も理人の声を思い出した。


 俺は、お前らを許さない。


 家に帰ると、母親が聞いた。


「どうしたの? 元気ないね」


 莉央は靴を脱ぎながら答えた。


「別に」


「学校で何かあった?」


「何もない」


 そう言って、自分の部屋に入った。


 何もない。


 そう言えば、何もなかったことになる。


 莉央はまだ、そう信じようとしていた。


 けれど、その日の夜。


 布団の中で目を閉じると、黒い画面が浮かんだ。


 顔のない画面。


 名前だけが表示された画面。


 そして、その向こうから理人の声が聞こえる気がした。


 俺は、お前らを許さない。


 第2話「空いた席」。


 卒業前の教室に落ちたのは、怒鳴り声ではなかった。


 殴られた痛みでもなかった。


 顔すら映さない、音声だけの拒絶だった。


 けれど、その一言は、神谷莉央の人生の奥底に沈み、何年も、何十年も消えない影になる。


 逃げて、逃げて、逃げて、逃げる人生を歩むのか。


 高石正美の問いと、伊達理人の拒絶。


 その二つが、莉央の未来に置かれたまま、卒業式の日は近づいていっ

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