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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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夏休みの転居

少年法の壁 後日談 神谷莉央


第1話「夏休みの転居」


横須賀市立港ヶ丘小学校、六年二組。


夏休み前の教室には、いつものざわめきがあった。


神谷莉央、中村獅童、中島こころたちは、伊達理人が夏休み明けにはもうこの教室にいないことを、ほとんど深く考えていなかった。


「伊達、引っ越すんだって」


「へえ」


「どこ?」


「長野。飯山とか言ってた」


「知らん」


その程度だった。


理人がどんな思いで教室に来ていたのか。


朝、家を出る前にどんな顔をしていたのか。


妹の美羽が、兄の様子をどれほど心配していたのか。


莉央たちは、何も知らなかった。


いや、知ろうともしなかった。


六年二組にとって、伊達理人は「いなくなる同級生」だった。


ただそれだけだった。


一方、三年生の教室。


伊達美羽の席も、夏休み明けには空になる。


けれど、三年生たちは事情をよく知らなかった。


「伊達さん、引っ越すんだって」


「そうなんだ」


「お兄ちゃんと一緒らしいよ」


「ふうん」


それだけだった。


美羽は小学三年生だった。


兄と同じ教室にいたわけではない。


けれど、兄が苦しんでいた姿は見ていた。


夜中に眠れず、布団の中で目を開けている理人。


朝、ランドセルを背負う前に、玄関で足が止まる理人。


学校の話になると、急に黙る理人。


両親が、台所で小さな声で相談している姿。


美羽は幼いながらに分かっていた。


お兄ちゃんは、あの学校に行くのが怖いのだ。


夏休みに入ってすぐ、伊達家は横須賀を離れた。


引っ越しの日。


段ボールが積まれた部屋で、理人は最後まであまり喋らなかった。


美羽もまた、兄のそばから離れようとしなかった。


横須賀の町並みが遠ざかる。


駅のホーム。


新幹線の車内。


窓の外を流れていく景色。


美羽は、しばらく黙っていた。


そして、小さな声で聞いた。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「もう、あの学校行かなくていいの?」


理人はすぐには答えられなかった。


窓の外を見たまま、少しだけ唇を結ぶ。


そして、ようやく言った。


「うん」


美羽は小さく頷いた。


「よかった」


その言葉に、理人は返事ができなかった。


小学三年生の妹に、そんな言葉を言わせてしまった。


そのことが、悔しかった。


悲しかった。


そして、申し訳なかった。


飯山に着いたのは、夏の午後だった。


横須賀とは空気が違った。


潮の匂いはない。


かわりに、山の匂いがした。


遠くに緑の稜線が見える。


理人と美羽にとって、そこは逃げ込んだ場所だった。


けれど同時に、もう一度息をするための場所でもあった。


数日後。


伊達家は、昔から付き合いのある秋生家を訪ねた。


秋生光。


理人より一つ年上の中学一年生。


両親が飯山市内でボクシングジムを営んでいる少女だった。


理人と美羽は、飯山へ帰省した時、何度も光と遊んでいた。


だから、光にとって二人は初対面ではなかった。


ジムの前で縄跳びをしていた光は、理人を見るなり手を止めた。


「理人?」


理人は少しだけ顔を上げた。


「光姉ちゃん」


「久しぶり。美羽ちゃんも」


美羽は理人の後ろから顔を出した。


「光ちゃん」


光は笑った。


でも、その笑顔の奥で、すぐに気づいた。


理人の表情が、前と違うことに。


昔の理人は、もっとよく笑っていた。


美羽をからかって、光に怒られて、また笑っていた。


けれど今の理人は、笑う前に周りの反応を見ていた。


言葉を出す前に、傷つかない言い方を探していた。


光は何も聞かなかった。


ただ、明るく言った。


「ジム、見ていく?」


理人は戸惑った。


「俺、ボクシングとか分からないし」


「見学だけなら分からなくていいよ」


美羽が不安そうに聞いた。


「痛い?」


光はしゃがんで、美羽の目線に合わせた。


「最初から殴り合いなんかしないよ。縄跳びとか、構え方とか、ミット打ちとか」


「ミット?」


「音が鳴るやつ」


美羽は少しだけ目を丸くした。


ジムの中に入ると、革の匂いがした。


サンドバッグ。


リング。


壁に貼られたポスター。


ミットを打つ乾いた音。


理人は足を止めた。


怖い場所だと思っていた。


誰かを殴る場所だと思っていた。


でも、そこにあったのは乱暴な空気ではなかった。


打つ人も、受ける人も、相手をちゃんと見ていた。


光は小さなグローブを持ってきて、美羽の手にはめた。


「軽くここを叩いてみて」


光がミットを構える。


美羽はおそるおそる拳を出した。


ぽすっ。


小さな音が鳴った。


美羽の目が丸くなる。


「鳴った」


光が笑う。


「鳴ったね」


もう一度。


ぱんっ。


今度は少しだけ大きな音がした。


美羽が笑った。


飯山に来てから、初めて見るような、力の抜けた笑顔だった。


理人はその顔を見て、胸が詰まった。


光が理人を見る。


「理人もやってみる?」


理人は首を横に振りかけた。


けれど、美羽が言った。


「お兄ちゃんもやって」


理人は美羽を見た。


美羽は笑っていた。


その笑顔を守りたいと思った。


理人はグローブを受け取った。


手にはめると、思ったより重かった。


光がミットを構える。


「思いきりじゃなくていいよ。まずはまっすぐ」


理人は拳を構えた。


けれど、なかなか出せなかった。


光はすぐに気づいた。


「怖い?」


理人は黙った。


光は静かに言った。


「誰かを傷つけるために打つんじゃないよ」


理人は顔を上げた。


「じゃあ、何のため?」


光は少し考えてから答えた。


「自分を倒れたままにしないため」


理人はミットを見つめた。


横須賀で、何度も心が倒れた。


けれど、倒れたと言うことすらできなかった。


光は続けた。


「ボクシングって、殴る競技に見えるけど、ほんとは立つ競技だと思う。怖くても、痛くても、自分の足で立つ競技」


理人は、ゆっくり拳を出した。


ぱんっ。


乾いた音が鳴った。


強くはなかった。


速くもなかった。


けれど、その音は、理人の中に残った。


もう一度。


ぱんっ。


光が頷く。


「いいじゃん」


理人は息を吐いた。


横須賀で飲み込んできた息が、少しだけ外に出た気がした。


その夏休み。


理人と美羽は、秋生ジムに通い始めた。


まだ転校先の学校は始まっていない。


新しい友達もいない。


けれど、二人には先に、グローブをはめる時間ができた。


縄跳び。


構え方。


足の運び。


ミット打ち。


美羽は楽しそうに音を鳴らした。


理人は無口なまま、それでも少しずつジムに通うようになった。


光は、無理に事情を聞かなかった。


「忘れなよ」とも言わなかった。


「頑張れ」と何度も言わなかった。


ただ、ミットを構えた。


それが、理人にはありがたかった。


一方、横須賀。


夏休みが終わる。


港ヶ丘小学校六年二組には、伊達理人の席はもうない。


三年生の教室にも、伊達美羽の席はない。


けれど学校は、驚くほど早くいつもの音を取り戻した。


チャイムは鳴る。


給食は出る。


授業は進む。


運動会の練習も始まる。


神谷莉央たちは笑い、ふざけ、卒業までの半年へ進んでいく。


彼女たちにとって、伊達理人と伊達美羽は、ただの「いなくなった相手」だった。


だが、飯山では。


傷ついた兄妹が、夏休みの小さなジムで、初めてミットを打っていた。


逃げたのではない。


生きるために離れた。


そして、立ち上がるための音が、そこから始まっていた。

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