母ではない人
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第17話「母ではない人」
飯山からの手紙が届いた数日後。
葵は、もう一通の手紙を書いていた。
宛先は、莉央。
かつて母と呼んでいた人。
机の上には、白い便箋が置かれている。
葵は何度も書き直した。
怒りだけで書きたくはなかった。
でも、優しい言葉でごまかしたくもなかった。
自分の気持ちを、はっきり伝えなければならないと思った。
葵は深呼吸して、ペンを握った。
⸻
莉央さんへ。
もう私たちに関わらないでください。
私は、あなたのことを母とは思えません。
そして、思いたくもありません。
あなたが理人さんや美羽さんにしたこと。
それをずっと隠してきたこと。
私に、人を傷つけるな、人の痛みを知りなさいと言いながら、自分自身はその過去から逃げ続けていたこと。
私はどうしても許せません。
今、私は父と岐阜で暮らしています。
新しい生活を始めようとしています。
だから、もう私たちに連絡しないでください。
手紙も送らないでください。
会いに来ないでください。
私は、あなたと話す準備がありません。
そして、今は話したいとも思いません。
立川葵
⸻
葵は書き終えると、しばらく便箋を見つめていた。
涙は出なかった。
むしろ、涙が出ないことが悲しかった。
母へ送る手紙のはずなのに。
そこには「お母さん」という言葉が一度もなかった。
封筒に入れ、宛名を書く。
神谷莉央様。
その文字を書いた瞬間、葵の胸が少し痛んだ。
でも、手は止めなかった。
達也に見せると、達也は静かに読んだ。
そして、何も直さなかった。
「出していいと思う」
葵は頷いた。
「うん」
数日後。
横須賀。
莉央のもとへ、その手紙は届いた。
差出人の名前を見た瞬間、莉央の心臓が跳ねた。
立川葵。
娘の名前。
いや、もう神谷葵ではない。
莉央は震える手で封を開けた。
一文字ずつ読む。
もう私たちに関わらないでください。
私は、あなたのことを母とは思えません。
思いたくもありません。
莉央の視界が歪んだ。
便箋を持つ手が震える。
読み進めるたびに、胸の奥が崩れていく。
手紙も送らないでください。
会いに来ないでください。
話したいとも思いません。
最後の署名。
立川葵。
莉央はその場に崩れ落ちた。
声にならない声が漏れる。
「葵……」
涙が止まらなかった。
もう、葵と言葉を交わすこともできないのか。
手紙を送ることもできないのか。
「お母さん」と呼ばれることも、もうないのか。
莉央は便箋を胸に抱いた。
しかし、その紙は温かくなかった。
娘から届いた最後の境界線だった。
思い出す。
小さかった葵。
初めて歩いた日。
熱を出して泣いた夜。
学校から帰ってきて「お母さん」と抱きついてきた日。
東京ドームで理人と美羽を見て、目を輝かせていた日。
そのすべてが、遠くなっていく。
莉央は泣きながら呟いた。
「ごめんなさい……」
けれど、その言葉はもう、葵には届かない。
送ることも許されない。
話すことも拒まれた。
自分が長い間、理人と美羽に向き合わなかったように。
今、娘は自分との関係を閉じた。
ただ一つ違うのは。
葵は逃げているのではない。
自分を守るために、境界線を引いたのだ。
莉央はそのことを、涙の中で思い知った。
第17話「母ではない人」。
葵が書いた手紙は、復讐ではなかった。
自分の心を守るための宣言だった。
そして莉央にとっては。
娘とのつながりが、確かに断たれたことを告げる、最も重い一通だった。




