あなたはあなた
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第15話「あなたはあなた」
岐阜へ引っ越してから、一か月が過ぎた。
葵は新しい学校にも少しずつ慣れ始めていた。
達也も新しい職場で働き始めている。
生活は変わった。
住所も変わった。
名字も立川に戻った。
けれど。
心の中に残るものは簡単には消えなかった。
夜になると、横須賀のことを思い出す。
理人。
美羽。
光。
そして母のこと。
葵は机に向かっていた。
白い便箋。
何度も書き直した文字。
消しゴムの跡。
深呼吸をして、最後の一文を書いた。
そして封筒に入れた。
宛先は長野県飯山市。
伊達理人。
伊達美羽。
秋生光。
三人宛だった。
手紙にはこう書かれていた。
⸻
理人さん、美羽さん、光さんへ。
突然のお手紙をお許しください。
私は神谷莉央の娘の葵です。
母が皆さんに対して行ったことを知りました。
本当に言葉がありません。
皆さんがどれほど苦しんだのか。
どれほど傷ついたのか。
私には全部は分かりません。
それでも、母の娘として謝らなければならないと思いました。
本当に申し訳ありませんでした。
母がしたことは許されることではないと思います。
それでも私は、理人さんや美羽さん、光さんが今も人を思いやる心を失わずにいることを知り、ますます尊敬するようになりました。
私はこれから、人を傷つけない人間になりたいです。
皆さんのように、人の痛みを忘れない人になりたいです。
本当に申し訳ありませんでした。
立川葵
⸻
投函したあとも、葵は落ち着かなかった。
返事など来ないかもしれない。
読まれないかもしれない。
むしろ迷惑かもしれない。
それでも書かずにはいられなかった。
数週間後。
一通の封筒が届いた。
差出人は飯山ボクシングジム。
葵の手が震えた。
封を開ける。
中には三人の連名の手紙が入っていた。
最初の文章は理人の字だった。
⸻
葵さんへ。
手紙を読みました。
まず伝えたいことがあります。
あなたは母親とは違う人格を持っています。
あなたはあなたです。
母親がしたことの責任を背負う必要はありません。
謝る必要も本当はありません。
それでも手紙を書いてくれたこと。
向き合おうとしてくれたこと。
その気持ちは伝わりました。
ありがとう。
⸻
葵の目から涙がこぼれた。
続きを読む。
⸻
人は自分の親を選べません。
でも、自分がどんな人間になるかは選べます。
だから、どうかその心を大切にしてください。
人を思いやる心。
間違ったことを間違っていると言える勇気。
それはとても大切なものです。
⸻
次は美羽の字だった。
⸻
葵ちゃん。
あなたは何も悪くありません。
だから自分を責めないでください。
私が小学生の頃、一番苦しかったのは「誰も分かってくれない」ことでした。
でも、あなたは向き合おうとしてくれました。
そのことが嬉しかったです。
⸻
最後は光だった。
⸻
葵ちゃん。
理人も美羽も、今はちゃんと前を向いています。
だからあなたも前を向いてください。
そして、もし会いたいと思ったら。
いつでも飯山に来てください。
私たちは歓迎します。
一緒にお茶でも飲みましょう。
⸻
葵は最後の一文を何度も読み返した。
いつでも来てください。
歓迎します。
その言葉を見た瞬間。
胸の奥にずっとあった重たい石が、少しだけ軽くなった気がした。
涙が止まらなかった。
達也が部屋を覗く。
「どうした?」
葵は泣きながら笑った。
「返事来た」
達也は手紙を読んだ。
そして静かに頷いた。
「良かったな」
葵は何度も頷いた。
「うん」
「本当に良かった」
窓の外では、岐阜の夕暮れが広がっていた。
横須賀でもない。
長野でもない。
新しい町。
新しい生活。
傷は消えない。
失ったものも戻らない。
けれど。
それでも前を向いて歩いていくことはできる。
葵は手紙を胸に抱いた。
いつか飯山へ行こう。
理人さんに会いたい。
美羽さんに会いたい。
光さんに会いたい。
そして直接、ありがとうと言いたい。
そう思った。
第15話「あなたはあなた」。
母の過去は消えない。
だが、葵はその過去に縛られて生きる必要はない。
理人たちから受け取った言葉は、葵にとって新しい人生への最初の一歩だった。




