代償
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘 葵
第14話「代償」
葵の部屋のドアは、閉じられたままだった。
莉央は、その前に立っていた。
「葵……」
返事はない。
「お願い、少しだけ……」
中から声はしなかった。
ドア一枚。
たったそれだけの距離なのに、莉央にはもう届かない場所に感じられた。
その場に膝をついた。
そして、崩れ落ちた。
なんで。
なんで私は。
大切なものをすべて壊してまで、隠そうとしたのか。
達也。
葵。
家族。
食卓。
笑い声。
「お母さん」と呼ぶ声。
全部、守りたかったはずだった。
なのに、自分が守っていたのは家族ではなかった。
自分の嘘だった。
その夜、莉央は震える手でスマホを開いた。
獅童に電話をかけた。
しばらくして、低い声が返ってきた。
「……どうした」
莉央は言った。
「葵に知られた」
電話の向こうで沈黙が落ちた。
やがて獅童が言った。
「うちもだ」
莉央の息が止まる。
「息子に知られた」
「妻にも知られた」
「もう、何もかも終わった」
莉央は言葉を失った。
次に、こころへ連絡した。
こころは泣いていた。
「娘に見つかった」
「全部知られた」
「夫にも」
「もう家にいても、誰も私を見てくれない」
三人とも同じだった。
理人と美羽を傷つけた過去。
隠し続けた過去。
それが、それぞれの家庭を壊し始めていた。
誰かが復讐したわけではない。
理人も美羽も光も、何もしていない。
ただ、自分たちが隠してきたものが、時を経て戻ってきただけだった。
一方で、神谷家には別の現実も迫っていた。
鉄工所だった。
達也が離れる。
神谷姓を抜ける。
岐阜へ戻る。
それは、家庭だけの問題ではなかった。
神谷鉄工所の仕事にも直結した。
現場を支えていた達也が抜ければ、仕事は回らなくなる。
従業員もいる。
長年働いてきた職人たちがいる。
取引先もある。
簡単に畳むことはできなかった。
恭介は、年老いた体に鞭を打って現場に戻った。
腰は重い。
手も昔ほど動かない。
視力も落ちている。
それでも、機械の前に立った。
「買い手が見つかるまで、何とか持たせる」
そう言った。
だが、現実は厳しかった。
達也が抜けた穴は大きい。
仕事量は減らせない。
納期は待ってくれない。
従業員の給料も払わなければならない。
莉央も、鉄工所の現場に出るしかなくなった。
今まで経理や事務を手伝っていた程度だった。
だが、もうそんなことを言っていられない。
油の匂い。
金属音。
重い材料。
慣れない作業。
手に豆ができた。
腕が痛んだ。
腰が悲鳴を上げた。
それでも働いた。
働くしかなかった。
そしてさらに、家庭裁判所からの現実が来た。
養育費。
慰謝料。
調停の場で、達也は静かに言った。
「葵の生活と進学を守りたい」
「それだけです」
莉央は俯いていた。
恭介と絵梨奈も同席していた。
調停委員は資料を見ながら、淡々と金額を告げた。
莉央の顔から血の気が引いた。
恭介が思わず声を上げた。
「そんな金額、会社が潰れるわ」
絵梨奈も続けた。
「こちらにも生活があります。鉄工所だって従業員がいるんです」
調停委員は、静かに二人を見た。
そして言った。
「それは、あなた方が裏切った代償です」
部屋が静まり返った。
調停委員は続ける。
「お子さんは、母親と神谷家を信じて育ってきました」
「しかし、重大な過去を隠されていた」
「その結果、精神的な衝撃を受け、生活環境を変える必要が生じています」
恭介は何も言えなくなった。
調停委員は、さらに莉央へ視線を向けた。
「支払いが重いことは分かります」
「しかし、壊れた信頼の重さもまた、軽くありません」
莉央は唇を噛んだ。
重い。
あまりにも重い。
だが、反論できなかった。
自分が逃げた結果だった。
自分が隠した結果だった。
自分が謝らなかった結果だった。
調停を終えて外に出ると、恭介は壁に手をついた。
「こんなことになるなんて……」
絵梨奈は泣きそうな顔で言った。
「どうしてうちばかり……」
莉央は、その言葉を聞いても何も言わなかった。
昔なら同じように思ったかもしれない。
どうして自分ばかり。
どうして今さら。
どうして葵は分かってくれないのか。
でも今は違った。
ようやく、分かり始めていた。
自分たちは、ずっと被害者の顔をして逃げてきた。
家庭が大変だった。
子どもだった。
昔のことだった。
金も払った。
相手は有名になった。
もういいじゃないか。
その全部が、理人と美羽の痛みを見ないための言い訳だった。
そして今。
その言い訳が、何の役にも立たなくなっていた。
夜。
莉央は鉄工所の事務所で、一人帳簿を見ていた。
支払い予定。
売上。
従業員の給与。
養育費。
慰謝料。
数字が並んでいる。
そのすべてが、現実だった。
ドアの向こうでは、工場の機械音が鳴っている。
かつては家族を支える音だった。
今は、失ったものの重さを刻む音に聞こえた。
莉央は机に額をつけた。
「ごめんなさい……」
その言葉は、また誰にも届かなかった。
第14話「代償」。
家庭が壊れるとは、感情だけが壊れることではない。
仕事も。
名前も。
お金も。
生活も。
すべてに波が及ぶ。
莉央たちはようやく知る。
向き合わなかった過去は、いつか現実の請求書となって戻ってくるのだと。




