卒業式に来ないで
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘 葵
第13話「卒業式に来ないで」
葵が部屋に鍵をかけた日から、神谷家は変わった。
同じ家に住んでいる。
同じ食卓を囲む日もある。
けれど、家族ではなくなっていった。
葵は、莉央とほとんど話さなくなった。
必要なことは、達也にだけ伝える。
学校の予定。
持ち物。
進学の準備。
卒業式の案内。
そのすべてを、莉央ではなく達也に渡すようになった。
莉央が声をかけても、葵は短く答えるだけだった。
「うん」
「別に」
「大丈夫」
それ以上はない。
達也もまた、神谷家を信じられなくなっていた。
莉央だけではない。
恭介も。
絵梨奈も。
あの家全体が、理人と美羽の痛みを軽く見ていた。
人を傷つけたことより、家の体面を守ることを優先した。
金で済ませようとした。
被害者が有名になったのだからもういいだろうとすら言った。
達也は、その価値観の中で神谷姓を名乗り、鉄工所を継いできた自分に、深い嫌悪を覚えるようになっていた。
やがて、葵の小学校卒業の日が近づいた。
横須賀市立港ヶ丘小学校。
かつて莉央が卒業した小学校。
そして理人と美羽が傷ついた学校。
葵は、卒業式の案内を達也に渡した。
「お父さん」
「うん」
「卒業式、来てね」
達也は優しく頷いた。
「もちろん行く」
葵は少しだけ迷ったあと、言った。
「お母さんには来ないでって伝えて」
達也は一瞬、目を閉じた。
予想していなかったわけではない。
だが、言葉にされると重かった。
「分かった」
葵は続けた。
「おじいちゃんとおばあちゃんにも来ないでって」
達也は静かに頷いた。
「分かった」
卒業式当日。
莉央は家にいた。
式服は、クローゼットに掛かったままだった。
何度も手に取った。
着て行きたかった。
葵の晴れ姿を見たかった。
名前を呼ばれるところを見たかった。
卒業証書を受け取る姿を見たかった。
けれど。
来ないで。
その一言が、すべてだった。
莉央はリビングで座っていた。
時計の針が進む音だけが聞こえる。
今ごろ、開式の言葉だろうか。
今ごろ、校歌だろうか。
今ごろ、葵の名前が呼ばれているのだろうか。
母親なのに。
その場にいない。
行けないのではない。
来るなと言われたのだ。
恭介と絵梨奈にも連絡は行っていた。
二人も式には来なかった。
卒業式が終わった夕方。
達也と葵が帰ってきた。
葵は卒業証書を持っていた。
胸には小さな花。
目元は少し赤かった。
莉央は立ち上がる。
「葵……卒業、おめでとう」
葵は目を合わせなかった。
「ありがとう」
それだけだった。
その夜。
達也は莉央に言った。
「話がある」
リビングに、三人が座った。
達也は、長い沈黙のあと、はっきり言った。
「俺たち、別れよう」
莉央の顔から血の気が引いた。
「達也……」
達也は続けた。
「もう無理だ」
「葵も俺も、君を信じられない」
莉央は泣きそうになった。
「待って。私は……」
達也は首を振った。
「待てない」
葵は黙っていた。
けれど、やがて口を開いた。
「私」
莉央は娘を見る。
葵の声は震えていた。
「こんな親を持った私が恥ずかしい」
莉央の胸が裂けるようだった。
「葵……」
「呼ばないで」
葵は静かに言った。
その声は、怒鳴るよりも重かった。
後日。
達也は恭介と絵梨奈にも話をした。
神谷家の座敷。
かつては、鉄工所の将来について話し合った場所だった。
達也は、二人の前に座り、静かに言った。
「離婚します」
恭介は顔をしかめた。
「達也さん、そんな簡単に」
達也は遮った。
「簡単じゃありません」
絵梨奈が言う。
「葵のためにも、もう少し考えて」
達也は冷たく言った。
「葵のために決めました」
二人は黙る。
達也は続けた。
「裏切ったのは、あなたたちです」
恭介の顔がこわばった。
「俺たちは家を守ろうとしただけだ」
達也は首を振る。
「違います」
「あなたたちは、理人さんと美羽さんの痛みから逃げた」
「莉央を止めなかった」
「謝らせなかった」
「金で済ませようとした」
「そして今でも、被害者側が騒いでいるような言い方をした」
達也の声には、怒りがにじんでいた。
「俺は、そんな家の名前をこれ以上名乗れません」
絵梨奈が息を呑む。
達也はさらに言った。
「鉄工所も手放します」
恭介が立ち上がりかけた。
「何を言ってるんだ!」
「神谷の鉄工所を継ぐ約束だっただろう!」
達也はまっすぐ見返した。
「その約束は、神谷家を信じていたからです」
部屋が静まり返る。
達也は言った。
「もう信じられません」
「だから、そちらで売るなり、代わりを見つけるなりしてください」
恭介は言葉を失った。
絵梨奈も顔を伏せた。
達也は最後に言った。
「中学に入る前に、葵の籍も抜きます」
「俺も葵も、立川に戻ります」
「そして、俺の故郷の岐阜へ戻ります」
恭介が低く言った。
「本気か」
達也は答えた。
「本気です」
その夜。
莉央は、葵の部屋の前に立った。
「葵……」
返事はない。
「お願い、少しだけ話せない?」
沈黙。
やがて、ドアの向こうから声がした。
「もう話したくない」
それだけだった。
莉央はその場に立ち尽くした。
葵の卒業式の日。
それは、本来なら母として喜ぶ日だった。
しかし莉央にとっては。
娘の成長を見届ける席を失い。
夫から離婚を告げられ。
神谷家の崩壊が決定的になった日だった。
第13話「卒業式に来ないで」。
卒業とは、次の場所へ進むための日。
葵は、母と神谷家から離れて進むことを選んだ。
そして達也もまた、守る順序を間違えた家から、娘を連れて離れることを決めた。
神谷という名前が、葵の未来に残らないように。




