だから何なの?
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘
第10話「だから何なの?」
神谷家のリビング。
重苦しい空気が流れていた。
ソファには達也。
その隣に葵。
向かいには莉央。
さらに恭介と絵梨奈も座っている。
誰もテレビをつけていない。
誰も笑わない。
テーブルの上には冷めたお茶だけが置かれていた。
最初に口を開いたのは達也だった。
静かな声だった。
だが、その静かさが逆に重かった。
「莉央」
莉央は顔を上げない。
「なんで黙ってたんだ」
沈黙。
達也は続けた。
「結婚してから十三年だ」
「俺は何も知らなかった」
「葵も知らなかった」
「理人さんの試合を見て」
「美羽さんの試合を見て」
「光さんの試合を見て」
「すごい人だなって何度も話してきた」
達也の声が少し震える。
「俺たちが応援してるのを、どんな気持ちで見てたんだ」
莉央は唇を噛んだ。
長い沈黙。
やがて小さく答えた。
「隠したかった」
達也は黙って聞いている。
「何としても」
莉央の目から涙が落ちる。
「知られたくなかった」
「今の生活を失いたくなかった」
「葵を失いたくなかった」
「達也を失いたくなかった」
「だから……」
莉央は顔を伏せた。
「隠し通したかった」
達也は目を閉じた。
怒りもあった。
悲しみもあった。
だが一番大きかったのは失望だった。
莉央は今も、
理人や美羽のことではなく、
失いたくない自分の生活を語っていた。
その時だった。
恭介が口を開いた。
「でもな」
葵が顔を上げる。
恭介はため息をついた。
「俺たちにも事情はあったんだ」
達也の眉が動く。
恭介は続けた。
「あの頃、家の中がうまくいってなかった」
「俺と絵梨奈は毎日のように喧嘩してた」
絵梨奈も頷く。
「本当にひどかったのよ」
「お金のことで揉めて」
「仕事のことで揉めて」
「家の中の空気は最悪だった」
恭介は莉央を見る。
「莉央には嫌な思いをさせた」
「親として良くなかったと思う」
葵は黙って聞いていた。
恭介は続ける。
「だから莉央も荒れてたんだ」
「家で抱えたストレスがあった」
「俺たちにも責任はある」
その言葉を聞いた瞬間。
葵の表情が変わった。
怒りだった。
今までで一番強い怒りだった。
「だから?」
恭介が止まる。
葵は立ち上がった。
「だから何なの?」
声が震えていた。
「だから理人さんをいじめていいの?」
誰も答えられない。
葵は続けた。
「だから美羽さんを傷つけていいの?」
「だから人生を壊していいの?」
「だから家族ごと横須賀から追い出していいの?」
恭介は言葉を失った。
葵は涙を流しながら叫ぶ。
「関係ないじゃん!」
「理人さんたち、何も悪くないじゃん!」
「おじいちゃんたちが喧嘩してたことと!」
「理人さんたちに何の関係があるの!?」
部屋が静まり返る。
葵の肩が震えている。
「そんなの理由にならない!」
「絶対にならない!」
絵梨奈が口を開こうとする。
「葵……」
「ならないよ!」
葵は祖母を見た。
「私だって嫌なことあるよ!」
「学校で腹立つこともある!」
「友達と喧嘩することもある!」
「でもだからって関係ない人を傷つけない!」
その言葉に。
誰も反論できなかった。
葵は莉央を見る。
涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「お母さんも」
莉央が顔を上げる。
「お母さんも同じ」
「家がうまくいってなかったから?」
「だから理人さんたちを傷つけたの?」
「それでいいと思ったの?」
莉央は泣きながら首を振る。
「違う……」
「違うなら何?」
莉央は答えられない。
葵はさらに続けた。
「理人さんも家が苦しかったかもしれない」
「美羽さんも悩みがあったかもしれない」
「でも誰かを傷つけてないじゃん!」
「むしろ人を助けてるじゃん!」
達也は静かに葵を見ていた。
怒りながらも、
葵の言葉はまっすぐだった。
感情だけではなかった。
理屈としても正しかった。
葵は最後に言った。
「みんな、自分たちの話ばっかり」
恭介も。
絵梨奈も。
莉央も。
顔を上げられない。
葵の声は震えていた。
「誰も理人さんたちがどれだけ苦しかったか話さない」
「誰も理人さんたちに何をしたか話さない」
「自分が辛かった」
「自分が苦しかった」
「自分が大変だった」
「そんな話ばっかり」
葵は涙を拭った。
「私が聞きたいのはそこじゃない」
誰も動かない。
葵は静かに言った。
「理人さんたちに何をしたのか」
「どうして謝らなかったのか」
「どうして逃げ続けたのか」
「それを聞きたい」
達也は深く息を吐いた。
そして初めて、娘がもう子供ではなくなっていることを感じた。
問題の本質を見ていた。
何が間違っていたのかを。
そして神谷家の大人たちは、
誰一人その問いに答えられなかった。
第10話「だから何なの?」
家がうまくいかなかった。
親が喧嘩していた。
苦しかった。
それは事実かもしれない。
だが。
誰かを傷つけた理由にはならない。
その当たり前のことを、
十一歳の少女だけが真正面から口にしていた。




