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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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神谷家の考え

少年法の壁 スピンオフ

莉央の娘 葵


第9話「神谷家の考え」


その夜、葵は眠れなかった。


布団に入っても、目を閉じることができない。


東京ドームの歓声。


理人のアッパー。


美羽のボディ。


母の沈黙。


そして、あの一言。


「……本当」


その声が、頭の中で何度も繰り返される。


葵は母を信じていた。


人を傷つけてはいけない。


人の痛みを知りなさい。


困っている人を見て見ぬふりしない。


莉央は、そう教えてくれた。


葵はその言葉を大切にしてきた。


なのに。


その母が、かつて理人と美羽を傷つけた側にいた。


しかも、そのことをずっと隠していた。


葵は、胸の奥が冷たくなっていくのを感じた。


悲しい。


悔しい。


腹が立つ。


でも、それよりも強かったのは、裏切られたという感覚だった。


翌日。


達也は仕事を早めに切り上げ、葵と一緒に莉央の実家を訪ねた。


莉央の両親。


神谷恭介と神谷絵梨奈。


自宅兼鉄工所の元の主でもある二人だった。


達也は、結婚する時に立川姓から神谷姓へ変わった。


神谷家の鉄工所を継ぐため。


莉央と一緒にこの家を守るため。


そう思っていた。


しかし今、達也の中には別の疑問が生まれていた。


この家は、何を隠してきたのか。


恭介と絵梨奈は、最初はいつものように迎えた。


「どうした、急に」


「葵も一緒かい」


葵は祖父母を見ても、いつものように笑えなかった。


達也は座るなり、スマホをテーブルに置いた。


「理人選手の件です」


恭介の眉がわずかに動いた。


絵梨奈も、表情を固くした。


達也はそれを見逃さなかった。


「ご存じだったんですか」


沈黙。


葵の胸が、また冷たくなる。


知っていた。


祖父母も、知っていた。


恭介はため息をついた。


「昔の話だ」


達也の顔がこわばった。


葵は膝の上で手を握りしめる。


絵梨奈が続けた。


「子どもの頃のことを、今さら掘り返してどうするの」


葵は信じられない思いで祖母を見た。


達也は低い声で聞いた。


「莉央が理人さんと美羽さんをいじめていたことを、知っていたんですね」


恭介は不機嫌そうに言った。


「いじめって言ってもな。子ども同士のトラブルだろう」


葵の息が止まった。


子ども同士のトラブル。


その言葉で片づけるのか。


理人は横須賀を離れた。


美羽も傷ついた。


家族ごと人生を変えられた。


それを、トラブルと言うのか。


達也の声が少し震えた。


「止めなかったんですか」


恭介は視線を逸らした。


絵梨奈が言った。


「その時は、そこまで大ごとになるとは思わなかったのよ」


葵は思わず口を開いた。


「大ごとって……」


絵梨奈が葵を見る。


葵の目には、怒りと悲しみが混ざっていた。


「理人さんたちは、横須賀を離れたんだよ」


「美羽さんも傷ついたんだよ」


「それでも大ごとにならなきゃ、いいと思ってたの?」


絵梨奈は困ったように眉をひそめた。


「葵、あなたにはまだ分からないのよ」


その言葉が、葵の胸に刺さった。


子ども扱いされたからではない。


分かっていないのは、自分ではなく祖父母の方だと思ったからだった。


達也はさらに聞いた。


「問題になった後、謝罪はしたんですか」


恭介は黙った。


絵梨奈も答えない。


達也は言葉を失いかけた。


「まさか……」


恭介が苛立ったように言った。


「こっちだって大変だったんだ。学校にも呼ばれた。近所の目もあった。仕事にも影響が出そうだった」


葵は、祖父の言葉を聞いて背筋が冷たくなった。


理人や美羽のことではない。


自分たちの都合の話ばかりだった。


絵梨奈がため息をつく。


「それに、あちらもいい加減しつこかったのよ」


達也の目が鋭くなる。


「しつこい?」


絵梨奈は、言ってはいけない言葉を言うような自覚もなく続けた。


「もう解決金も払ったでしょう。なのに何度も何度も」


恭介も吐き捨てるように言った。


「金で済むなら済ませた方がいいと思ったんだ。こっちにも生活がある」


葵は震えた。


「金で……揉み消そうとしたの?」


恭介は顔をしかめた。


「揉み消すなんて言い方はするな」


達也は低く言った。


「同じことです」


部屋の空気が重くなる。


絵梨奈がさらに言った。


「だいたい、伊達家だって今は有名になったじゃない」


葵は祖母を見た。


嫌な予感がした。


絵梨奈は言い放った。


「理人さんも美羽さんも世界王者でしょ。お金にも困ってないでしょうし」


「もういいじゃない」


「まだ伊達家は騒いでるの?」


その瞬間。


葵の中で何かが凍った。


達也も、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


まだ伊達家は騒いでるの。


有名になった。


金にも困っていない。


もういいじゃない。


それが、神谷家の考えだったのか。


莉央一人の問題ではなかった。


この家全体が、そうやって理人たちの痛みを小さく見てきたのか。


達也は拳を握った。


深い悲しみと怒りが胸の奥から湧き上がってくる。


自分は、この家に婿入りした。


神谷の姓を名乗った。


鉄工所を継いだ。


その家が、こんなふうに人の痛みを扱っていた。


達也は静かに立ち上がった。


「分かりました」


恭介が眉をひそめる。


「何がだ」


達也は言った。


「この家が、何を大事にしてきたのか分かりました」


絵梨奈が不快そうに言う。


「達也さん、何を言ってるの」


達也は葵の肩に手を置いた。


「帰ろう」


葵は頷いた。


だが、玄関へ向かう前に、祖父母を見た。


「私、理人さんのファンでよかった」


恭介と絵梨奈は黙る。


葵は涙を浮かべながら言った。


「理人さんと美羽さんは、傷ついても、人を見下さなかった」


「相手を倒しても、頭を下げてた」


「おじいちゃんとおばあちゃんより、ずっと人の痛みを知ってる」


その言葉を残して、葵は玄関へ向かった。


外へ出ると、夕方の風が冷たかった。


達也はしばらく何も言わなかった。


葵も黙っていた。


二人とも、同じことを感じていた。


もう、昨日までの神谷家には戻れない。


問題は莉央だけではなかった。


莉央を止めなかった大人。


問題が深刻化しても、金で済ませようとした大人。


被害者が成功したから、もう黙れと言える大人。


その価値観が、この家にあった。


達也は小さく呟いた。


「葵」


「うん」


「お父さんは、ちゃんと調べる」


葵は涙を拭いた。


「私も」


二人は並んで歩き出した。


その背中には、深い悲しみと、静かな怒りがあった。


第9話「神谷家の考え」。


葵が知ったのは、母の過去だけではなかった。


その過去を止めなかった大人たちの存在。


そして、人の痛みを金と時間で片づけようとする、神谷家の冷たさだった。


その日、葵の中で、家族という言葉の形が大きく揺らぎ始めた。

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