謝る相手が違う
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘 葵
第8話「謝る相手が違う」
東京ドームでの世界タイトル戦から、数日が過ぎた。
神谷家の中には、まだあの夜の熱が残っていた。
父の達也は、仕事から帰るたびに試合のニュースを見返していた。
「理人選手の九ラウンド、やっぱりすごいな」
そう言いながら、スマホを食卓に置く。
葵はその横で、目を輝かせていた。
「美羽さんの十一ラウンドもすごかったよ。メリッサ選手、強かったのに、最後まで冷静だったもん」
「兄妹で東京ドーム防衛成功か。ほんと歴史的な夜だったな」
達也の声には、尊敬があった。
葵の声には、憧れがあった。
その二人の声を聞くたびに、莉央の胸は締めつけられた。
理人。
美羽。
その名前が家族の食卓で自然に出てくる。
夫と娘が、その二人を心から尊敬している。
それは本来なら、ただのスポーツ観戦の余韻で終わるはずだった。
しかし莉央にとっては違った。
あの兄妹は、自分がかつて傷つけた相手だった。
横須賀市立港ヶ丘小学校。
六年二組。
理人の硬い表情。
美羽の泣きそうな目。
そして、笑っていた自分。
葵が理人と美羽の話をするたびに、封じ込めていた記憶が少しずつ浮かび上がってくる。
莉央は何度も自分に言い聞かせた。
今さら言えない。
今の生活を壊したくない。
達也に知られたくない。
葵にだけは知られたくない。
自分は母親として、ちゃんと葵を育ててきた。
人を傷つけてはいけない。
人の痛みを知りなさい。
困っている人を見て見ぬふりしてはいけない。
そう教えてきた。
葵は、その言葉を素直に受け止めて育ってきた。
だからこそ、莉央は恐れていた。
もし葵が知ったら。
自分がかつて、その言葉と真逆のことをしていたと知ったら。
その時、娘は自分をどう見るのだろう。
数日後の夕方。
葵は自室のベッドに座り、東京ドームの試合ダイジェストを見ていた。
最初は美羽の試合だった。
十ラウンドのダウン。
十一ラウンドの二度目のダウン。
レフェリーが試合を止める瞬間。
東京ドームの歓声。
葵は何度見ても胸が熱くなった。
続いて理人の試合。
八ラウンドの最初のダウン。
九ラウンドのアッパー。
ラディット・スルヤナが立てず、試合が止められる場面。
葵は小さく呟いた。
「理人さん、やっぱりすごい……」
コメント欄も盛り上がっていた。
――美羽のボディ、ほんまに効いてた。
――理人のアッパー、鳥肌立った。
――兄妹で防衛成功とか伝説。
葵は嬉しくなって、さらにスクロールした。
その時だった。
一つのコメントが目に入った。
――あれ、神谷じゃね?
葵の指が止まった。
神谷。
自分の苗字。
最初は偶然だと思った。
けれど、次のコメントで心臓が跳ねた。
――客席映った時、神谷莉央いたよな?
葵は画面を見つめた。
神谷莉央。
母の名前だった。
さらにコメントは続いていた。
――港ヶ丘小の件の莉央?
――理人をいじめてた側だろ。
――いじめた相手の試合見に来てたのか?
――娘連れて来てるのきついな。
葵の手が震えた。
意味が分からなかった。
分かりたくなかった。
誰かの悪質な冗談だと思いたかった。
けれど、コメント欄には切り抜き動画のリンクが貼られていた。
葵は、震える指でそれを開いた。
試合前の東京ドーム。
客席を映すカメラ。
ほんの数秒。
観客席の一角に、三人が映っていた。
達也。
葵。
そして莉央。
間違いなく、自分たちだった。
葵は息を止めた。
コメント欄に戻る。
――これ莉央だよな。
――昔の集合写真と顔似てる。
――神谷莉央って理人の同級生だったはず。
――横須賀市立港ヶ丘小学校。
葵の頭の中で、これまでの出来事が次々につながっていった。
理人のSNSに書かれていた横須賀の小学校。
港ヶ丘小学校。
母の母校。
母と同じくらいの卒業年度。
その話をした時の母の不自然な沈黙。
東京ドームへ向かう朝のこわばった顔。
試合後の夕食で、ほとんど食べなかったこと。
葵はスマホを握りしめたまま、階段を下りた。
一段一段、足音が重く響いた。
リビングでは、莉央が夕食の準備をしていた。
達也はテレビを見ながら、仕事の疲れを抜いているところだった。
いつもの夜だった。
味噌汁の匂い。
食器の音。
テレビの小さな音。
けれど葵には、もういつもの家には見えなかった。
「お母さん」
莉央が振り返る。
「どうしたの?」
葵はスマホを差し出した。
「これ、どういうこと?」
莉央の表情が固まった。
ほんの一瞬だった。
けれど葵は見逃さなかった。
母は驚いたのではない。
知らないことを見せられた顔ではなかった。
見つかってしまった人の顔だった。
達也も異変に気づいた。
「葵、何だ?」
葵はスマホを渡した。
達也が画面を見る。
切り抜き動画。
コメント欄。
神谷莉央。
いじめ。
港ヶ丘小学校。
伊達理人。
伊達美羽。
達也の顔から、みるみる表情が消えていった。
「莉央」
声が低くなった。
「これは何だ?」
莉央は答えられなかった。
葵は母をまっすぐ見た。
「嘘だよね?」
沈黙。
「お母さんじゃないよね?」
莉央は口を開いた。
でも声が出ない。
葵の目に涙が浮かんだ。
「嘘って言ってよ」
莉央は椅子に座り込んだ。
もう隠せない。
そう悟った。
葵は理人のSNSを読んでいる。
港ヶ丘小学校の名前も知っている。
母の卒業年度にも気づき始めている。
そして今、コメント欄には自分の名前が出ている。
莉央は、かすれた声で言った。
「……本当」
葵の顔から血の気が引いた。
達也も動かない。
莉央は震えながら続けた。
「理人くんは……同じ小学校だった」
「同じ学年だった」
葵の声が震えた。
「じゃあ……お母さんも、理人さんをいじめたの?」
莉央は答えられなかった。
その沈黙が、答えだった。
葵の涙が落ちた。
「美羽さんも?」
「お兄ちゃんを助けようとした美羽さんにも?」
莉央は唇を震わせた。
「ごめん……」
その瞬間、葵の表情が変わった。
悲しみよりも先に、怒りが噴き上がった。
「私に謝らないで」
莉央は顔を上げた。
葵は涙を流しながら、はっきりと言った。
「謝る相手が違うでしょ」
リビングが静まり返った。
葵は続けた。
「理人さんでしょ」
「美羽さんでしょ」
「伊達さんの家族でしょ」
「お母さんが謝らなきゃいけない相手は、私じゃないでしょ!」
莉央は声を失った。
達也はスマホをテーブルに置いた。
その手が震えていた。
葵は、母を見つめたまま言った。
「お母さん、いつも言ってたよね」
「人を傷つけるなって」
「人の痛みを知りなさいって」
「困っている人を見たら助けなさいって」
「見て見ぬふりをしちゃ駄目だって」
莉央は何も言えなかった。
全部、自分が葵に言ってきた言葉だった。
葵は泣きながら叫んだ。
「私、それ信じてたんだよ!」
「お母さんが言うから、ちゃんとそうしようって思ってたんだよ!」
達也が静かに口を開いた。
「莉央」
莉央は顔を上げられなかった。
「どうして話さなかった」
莉央は涙をこぼした。
「話せなかったの……」
葵がすぐに言った。
「違う」
莉央は娘を見る。
葵は涙で濡れた目で、母を見据えていた。
「話せなかったんじゃない」
「話さなかったんでしょ」
莉央の胸に、その言葉が突き刺さった。
葵は続けた。
「知られたくなかったからでしょ」
「今の生活を失いたくなかったからでしょ」
「私とお父さんに嫌われたくなかったからでしょ」
達也は何も言わなかった。
だが、その沈黙がすべてを語っていた。
莉央は震える声で言った。
「でも……もう昔のことだから……」
その瞬間。
葵の顔から、最後の迷いが消えた。
「昔のこと?」
声が低くなった。
「昔のことだから何?」
莉央は固まった。
葵は涙を流しながら言った。
「理人さんは今でも覚えてるじゃん」
「美羽さんだって覚えてるじゃん」
「家族で横須賀を離れたんでしょ?」
「人生を変えられたんでしょ?」
「それを、お母さんが昔のことって言うの?」
莉央は何も返せなかった。
葵はさらに続けた。
「お母さんにとっては昔でも」
「理人さんたちにとっては、ずっと続いてたことなんじゃないの?」
「だからSNSにも書いてるんじゃないの?」
「だから今でも話してるんじゃないの?」
莉央は胸を押さえた。
痛かった。
でもその痛みは、自分が受けるべきものだった。
葵はスマホをテーブルに置いた。
「私、ちゃんと調べる」
莉央は顔を上げた。
「葵……」
「止めないで」
葵の声は冷たかった。
「もう、お母さんの言葉だけじゃ信じられない」
達也も静かに言った。
「俺も知る必要がある」
莉央は達也を見た。
そこにあったのは、いつもの穏やかな夫の目ではなかった。
十数年、何も知らされていなかった夫の目だった。
葵は最後に言った。
「お母さん」
莉央は震えた。
「もし本当に理人さんと美羽さんを傷つけたなら」
「私に謝るんじゃなくて」
「ちゃんと謝る相手に謝って」
「でも、許してもらえるかどうかは、お母さんが決めることじゃない」
夕食は、誰の手もつけられないまま冷めていった。
テレビでは、東京ドームで勝った理人と美羽のニュースが流れている。
葵にとっては、憧れのチャンピオン。
達也にとっては、尊敬するアスリート。
そして莉央にとっては、十数年守ってきた家庭の中へ、ついに入り込んできた過去そのものだった。
第8話「謝る相手が違う」。
葵は、母を責めたかっただけではなかった。
真実を知りたかった。
なぜ隠したのか。
なぜ正しいことを教えながら、自分の過去には向き合わなかったのか。
その問いが、神谷家の食卓に置かれた瞬間。
莉央が守ろうとしていた日常は、静かに崩れ始めた。




