表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/76

コメント欄

少年法の壁 スピンオフ

莉央の娘 葵


第7話「コメント欄」


東京ドームを出たあとも、葵の興奮は収まらなかった。


夜の水道橋は、試合を見終えた観客であふれていた。


理人の応援タオルを肩にかけた人。


美羽の名前が入ったTシャツを着た人。


親子連れ。


カップル。


年配のボクシングファン。


誰もが、さっき見た試合の話をしていた。


「美羽のボディ、すごかったな」


「理人のアッパー、鳥肌立った」


「二人とも防衛成功とか、歴史的な夜だよ」


葵はその声を聞くたびに、嬉しそうに笑った。


達也も、いつもより口数が多かった。


三人は東京ドーム近くの店で夕食を取ることにした。


席に着くなり、葵はメニューも見ずに話し始めた。


「美羽さんの十ラウンド目、ほんまにすごかった!」


達也も頷く。


「十一ラウンドで仕留めたところもな。焦ってなかった」


葵は興奮したまま続けた。


「理人さんも! 最初は距離取って、ジャブで見てて、そこからボディで削って、最後アッパーやろ?」


達也が笑う。


「お前、解説者みたいだな」


「だってすごかったもん!」


葵の目は輝いていた。


達也も同じだった。


「でも理人選手は、勝ったあとがまたすごいな。ラディット選手のところへ行って、ちゃんと頭を下げていた」


葵は力強く頷く。


「美羽さんもメリッサ選手に頭下げてた!」


達也は感心したように言った。


「強い人ほど、相手をちゃんと尊重するんだろうな」


莉央は、グラスの水を見つめていた。


氷がかすかに音を立てる。


その音が、妙に大きく聞こえた。


達也と葵は、尊敬と憧れの目で理人と美羽を語っている。


その二人を見ていると、莉央の心は凍りつくという言葉では足りなかった。


冷たい。


痛い。


苦しい。


吐き気に似たものが喉元まで上がってくる。


自分がかつて傷つけた人間を、夫と娘がまっすぐに尊敬している。


その事実が、胸の奥を内側から削っていく。


葵が言った。


「お母さん、あんまり食べてないよ」


莉央は慌てて箸を取った。


「ちょっと疲れただけ」


達也も心配そうに見る。


「人が多かったからな。無理するなよ」


「うん」


莉央は笑った。


けれど、その笑顔はもう自分でも作りものだと分かるほど硬かった。


帰りの電車でも、葵と達也は試合の話をしていた。


横須賀線の窓に、三人の顔が映る。


葵の笑顔。


達也の満足そうな顔。


莉央のこわばった表情。


誰もそれに気づかないふりをしていた。


いや、葵は少し気づいていた。


母の様子が、今日ずっとおかしいことに。


それから数日後。


葵は自分の部屋で、試合のダイジェスト動画を見ていた。


美羽の十ラウンド目のダウン。


理人の九ラウンドTKO。


何度見ても胸が熱くなる。


コメント欄も盛り上がっていた。


「美羽のボディえぐい」


「理人のディフェンス芸術」


「兄妹で東京ドーム防衛成功とか漫画でもやりすぎ」


葵は笑いながらスクロールしていた。


その時。


一つのコメントが目に入った。


――あれ、神谷じゃね?


葵の指が止まった。


神谷。


自分の苗字。


偶然だと思った。


しかし、次のコメントが目に入る。


――客席映ったとき、いたよな?


――いじめた相手を見に来たのか?


葵の胸がざわついた。


どういうこと?


さらにスクロールする。


誰かが切り抜き動画のリンクを貼っていた。


試合前、客席を映した数秒の映像。


葵はその動画を開いた。


東京ドームの観客席。


カメラがゆっくり流れる。


一瞬、画面の端に映る三人。


達也。


葵。


そして莉央。


葵は息を止めた。


自分たちだ。


確かに映っている。


コメントが続いている。


――この真ん中の女、神谷莉央じゃねえか?


――港ヶ丘小の件の?


――理人をいじめてた側?


――マジなら怖すぎる


――娘連れて見に来てるの地獄


葵は、スマホを持つ手が震えた。


莉央。


母の名前。


神谷莉央。


まさか。


そんなはずない。


でも、コメントはどんどん続いていた。


――昔の集合写真と顔似てる


――同級生だったはず


――横須賀の神谷ってあの神谷だろ


――理人の小学校時代の加害側


葵は画面を閉じようとした。


でも、閉じられなかった。


頭の中に、これまでの会話が浮かぶ。


「お母さん、理人さんと同じ学校だったの?」


「昔のことだから、あまり覚えてない」


あの時の母の沈黙。


こわばった顔。


東京ドームでの異様な緊張。


試合後の夕食で、ほとんど食べなかったこと。


全部が一つにつながっていくようで、葵は怖くなった。


葵はもう一度コメント欄を見た。


――莉央じゃねえか?


その文字が、画面の中で大きく見えた。


神谷莉央。


自分の母。


自分が信じてきた母。


いつも言っていた母。


人を傷つけるな。


人の痛みを知りなさい。


困っている人を見て見ぬふりしてはいけない。


その母の名前が、理人をいじめた側としてコメント欄に書かれている。


葵はベッドの上で動けなくなった。


スマホの画面だけが、青白く部屋を照らしていた。


階下から、莉央の声が聞こえた。


「葵、ご飯できたよ」


いつもの声。


優しい母の声。


けれど葵には、もう同じ声には聞こえなかった。


葵はスマホを握りしめたまま、かすれた声で呟いた。


「お母さん……?」


それは、呼びかけではなかった。


疑いだった。


第7話「コメント欄」。


たった数秒の客席映像。


たった一つのコメント。


それだけで、莉央が何十年も隠し続けた過去の扉は、音もなく開き始めた。


葵が憧れたチャンピオン。


その過去の傷と、自分の母の名前がつながった瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ