理人、王者の拳
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘 葵
第6話「理人、王者の拳」
美羽の防衛戦が終わっても、東京ドームの熱は冷めなかった。
リング上ではスタッフが慌ただしく動いている。
ロープが拭かれ、コーナーが整えられ、次の試合の準備が進められていく。
葵はまだ興奮していた。
「美羽さん、ほんまにすごかった……」
達也も深く頷く。
「あれが世界王者か」
莉央は何も言わなかった。
美羽の勝利だけでも、胸をえぐられるようだった。
だが、この夜の本当の中心はまだ残っている。
伊達理人。
葵が三年間、憧れ続けた世界王者。
莉央が何十年も、心の奥底で恐れ続けてきた名前。
会場の照明が再び落ちた。
大型ビジョンに、理人の過去の映像が流れる。
オリンピック。
世界タイトル戦。
防衛戦。
汗。
血。
涙。
そして最後に映る、飯山のジム。
実況が声を張る。
「さあ、いよいよメインイベントです。世界ミドル級タイトルマッチ。王者・伊達理人、今夜も東京ドームの大歓声を背にリングへ向かいます」
解説が続く。
「理人は鉄壁のディフェンスと正確なパンチが持ち味です。ただ、今夜の相手も侮れません」
大型ビジョンに挑戦者の名前が映る。
ラディット・スルヤナ。
インドネシア出身。
アジアで無敗。
強靭なスタミナと連打を武器に、世界挑戦まで駆け上がってきた選手だった。
リングアナウンサーの声が響く。
「青コーナー、挑戦者。インドネシア、ラディット・スルヤナ!」
ラディットは落ち着いた表情でリングへ上がった。
鋭い目。
無駄のない体。
会場の歓声にも飲まれていない。
続いて。
「赤コーナー、王者。日本、伊達理人!」
東京ドームが揺れた。
葵は思わず立ち上がった。
「理人さん!」
達也も拍手する。
「ついに来たな」
莉央は、椅子に座ったまま動けなかった。
花道を歩く理人。
その姿は、かつての六年二組の少年とはまるで違っていた。
だが莉央には、重なって見えた。
黒い画面。
静かな声。
俺は、お前らを許さない。
理人がリングへ上がる。
ラディットと向かい合う。
二人は中央で視線を交わした。
敵意ではない。
軽蔑でもない。
互いに、このリングへ辿り着いた者同士の緊張だった。
レフェリーが注意を告げる。
二人はグローブを合わせる。
ゴング。
第1ラウンド。
理人はすぐには出なかった。
距離を取る。
相手の足を見る。
肩を見る。
呼吸を見る。
ラディットも打ってこない。
互いに様子を見る時間が続く。
実況。
「まずは静かな立ち上がり。理人、距離を取っています」
解説。
「ラディットも慎重ですね。王者のカウンターを警戒しています」
理人が左ジャブを出す。
一発。
二発。
三発。
正確に、顔面の前へ置いていく。
ラディットはガードするが、前へ出づらい。
理人はさらにジャブを浴びせる。
実況。
「王者のジャブが鋭い! ラディット、まだ踏み込めません」
第2ラウンド。
ラディットは少し前に出る。
だが理人は足で外す。
左ジャブ。
右ボディ。
一発目のボディが入った。
鈍い音が響く。
葵が息を呑む。
「入った……!」
達也が頷く。
「あれは効くな」
理人の目が変わる。
じゃあ、先に行くぞ。
そう言っているようだった。
理人は一歩踏み込む。
左。
右ボディ。
顔面へジャブ。
またボディ。
ラディットはまだ大きく崩れない。
だが、確実に削られていく。
第4ラウンド。
理人のアッパーが炸裂した。
ラディットが入ってこようとした瞬間、理人の右アッパーが内側から突き上げる。
会場がどよめく。
実況。
「アッパー! 理人の右アッパーが入りました!」
解説。
「これは見事です。ラディットが前傾になったところを、完全に読んでいました」
ラディットは一瞬下がる。
理人は追いすぎない。
距離を作り直す。
またジャブ。
またボディ。
第5、第6ラウンド。
試合は理人のペースになっていった。
ラディットもパンチを出す。
左フック。
右ストレート。
連打。
しかし理人は巧みに避ける。
ガード。
スウェー。
足。
そして、返す。
ボディブロー。
実況。
「ラディットも出てきますが、理人が当てさせません!」
解説。
「理人は守っているだけではありません。避けた後に必ずボディを返しています。これがきつい」
ラディットの呼吸が少しずつ荒くなる。
それでも彼は前へ出る。
挑戦者として、倒れるわけにはいかない。
第8ラウンド。
理人は再び距離を詰めた。
左ジャブで顔を上げる。
右ボディ。
ラディットの体がわずかに折れる。
そこへ左フック。
さらに右ストレート。
ラディットがロープ際へ下がる。
理人は一瞬止まった。
焦らない。
そして、左ボディ。
深く入った。
ラディットの膝が落ちる。
実況。
「ダウン! 第8ラウンド、理人が最初のダウンを奪いました!」
東京ドームが爆発した。
葵は両手を握って叫んだ。
「理人さん!」
達也も立ち上がる。
「すごい!」
莉央は、息をするのを忘れていた。
理人はニュートラルコーナーへ下がる。
表情は変えない。
倒したことよりも、次に何をするかを見ていた。
ラディットは立ち上がった。
目は死んでいない。
第9ラウンド。
ラディットは最後の力で前へ出た。
右。
左。
連打。
会場がどよめく。
実況。
「ラディット、勝負に出た! ここで前へ出ます!」
理人は下がらない。
ガードで受ける。
一発を外す。
半歩横へ。
そして、右ボディ。
ラディットの動きが止まる。
理人はもう一度踏み込む。
左。
右。
ボディ。
顔面。
最後に、鋭い右アッパー。
ラディットが崩れ落ちた。
実況。
「二度目のダウン! 第9ラウンド、理人のアッパー! ラディット倒れました!」
レフェリーがカウントを始める。
ラディットは必死に立とうとする。
だが、膝が言うことをきかない。
視線はリングを向いている。
立ちたい。
しかし体が立たない。
レフェリーが両腕を広げ、試合を止めた。
テクニカルノックアウト。
試合終了。
東京ドームは、地鳴りのような歓声に包まれた。
実況。
「伊達理人、九ラウンドTKO勝利! 世界タイトル防衛成功です!」
解説。
「完璧に近い試合でした。ジャブで距離を作り、ボディで削り、アッパーで仕留めた。王者の強さを見せつけました」
葵は泣いていた。
「勝った……理人さん勝った……」
達也も拍手を続けていた。
「すごいな。本当にすごい」
リングの上で、理人は両手を上げた。
だがすぐにラディットの元へ歩み寄る。
ラディットの手を握り、深く頭を下げた。
ラディットも、苦しそうにしながら理人の腕を上げた。
その瞬間、会場からまた大きな拍手が起きる。
葵は涙を拭いながら言った。
「かっこいい……勝っても相手をちゃんと尊敬してる」
達也が静かに頷く。
「強い人って、こういう人のことなんだな」
莉央は、その言葉に胸を刺された。
強い人。
自分はかつて、弱い自分を隠すために理人を傷つけた。
今、理人は世界王者として、倒した相手に頭を下げている。
その差が、残酷なほどはっきりしていた。
大型ビジョンに、理人の勝利インタビューが映る。
「ラディット選手は本当に強い選手でした。途中、何度も危ない場面がありました。今日も支えてくれた家族、チーム、そして応援してくれた皆さんに感謝します」
葵は画面を見つめていた。
「理人さん、本当にすごい……」
達也も言った。
「こんな人が、昔いじめで苦しんでたんだな」
その一言に、莉央の体が硬直した。
達也は悪気なく続ける。
「それでもここまで来たんだから、どれだけ努力したんだろうな」
葵も頷く。
「理人さんをいじめた人たち、今これ見てどう思ってるんだろう」
莉央は、何も答えられなかった。
東京ドームの歓声が遠くなる。
理人の姿も、美羽の姿も、まぶしすぎる。
莉央は、自分の中に隠していたものが、いよいよ抑えきれなくなっていくのを感じていた。
第6話「理人、王者の拳」。
葵にとっては、憧れの王者が世界の強豪を倒した夜。
達也にとっては、本物の強さを見た夜。
そして莉央にとっては。




