横須賀線の朝
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘 葵
第4話「横須賀線の朝」
世界タイトル戦まで、あと二週間。
神谷家のリビングでは、毎日のように伊達理人と伊達美羽の話題が出ていた。
葵は学校から帰るたびに、スマホを片手に駆け込んでくる。
「理人さん、今日も練習映像出してた!」
「美羽さんのインタビューも上がってる!」
父の達也も、仕事を終えて帰ると笑ってスマホを覗き込んだ。
「どれどれ」
葵にとって、達也は一番身近な理人ファン仲間だった。
母の莉央は、そんな二人を見ながら笑顔を作っていた。
けれど、その笑顔は日に日に硬くなっていった。
ある日の夜。
達也が突然、スマホを握ったまま声を上げた。
「取れた!」
葵が振り返る。
「え?」
「チケット!」
葵の目が丸くなる。
「東京ドーム!?」
達也は画面を見せた。
「三人分!」
葵はその場で飛び跳ねた。
「うそ! ほんとに!? 理人さん見られるの!?」
「美羽さんも同じ日だぞ」
「やったーー!」
葵は達也に抱きついた。
達也も珍しく満面の笑みだった。
「苦労したぞ。何回も売り切れになってな」
「お父さん最高!」
葵は大喜びだった。
莉央は、その光景を見ていた。
夫と娘が笑っている。
何気ない家族の幸せ。
その中心にいるのは、自分がかつて傷つけた理人と美羽だった。
莉央の心は、静かに凍っていった。
普段から、莉央は葵に言ってきた。
「人の痛みを知りなさい」
「人に迷惑をかけることはしない」
「人を傷つけることはしない」
「誰かが困っていたら、見て見ぬふりをしない」
葵は、それを素直に聞き入れて育ってきた。
だからこそ、理人や美羽の過去を知った時、本気で怒った。
「そんなことをした人、絶対許せない」
そう言った。
その言葉を聞くたびに、莉央の胸は締めつけられた。
試合当日。
朝の横須賀駅。
まだ少し空気はひんやりしていた。
葵は、理人の応援タオルと美羽のキーホルダーをバッグにつけ、眠そうな顔なのに目だけは輝いていた。
達也が笑う。
「お前、五時半から起きてたもんな」
葵は胸を張った。
「だって東京ドームやもん!」
「まだ横須賀駅だぞ」
「分かっとる!」
ホームに横須賀線の列車が入ってくる。
葵は小さく跳ねた。
「来た!」
達也が苦笑する。
「まだ試合始まってないからな」
「分かっとるって!」
三人は横須賀線に乗り込んだ。
車内には、同じ方向へ向かう人たちもちらほらいた。
理人のTシャツを着た若い男性。
美羽のタオルを持つ親子。
ボクシング雑誌を読んでいる年配の男性。
葵は小声で興奮していた。
「お父さん、あの人も理人さんファン!」
「ほんとだな」
「あっちは美羽さんのタオル!」
「人気だなあ」
達也も楽しそうだった。
莉央は窓際に座り、流れていく景色を見ていた。
横須賀。
港ヶ丘小学校。
理人。
美羽。
東京ドームへ近づくほど、過去へ戻っていくような気がした。
列車は進む。
逗子。
鎌倉。
大船。
横浜。
葵は何度もスマホを開き、理人の記者会見映像を見返していた。
「お父さん、理人さんってほんま落ち着いてるよね」
「すごいよな。あれだけの会場で防衛戦なのに」
「美羽さんもすごい。兄妹で東京ドームなんて、かっこよすぎる」
達也は頷く。
「二人とも勝ってほしいな」
「絶対勝つよ!」
葵は笑った。
莉央は、その会話に入れなかった。
葵がふと莉央を見る。
「お母さん?」
莉央は顔を上げる。
「何?」
「顔、怖いよ」
達也も心配そうに見る。
「大丈夫か? 体調悪い?」
莉央は慌てて笑った。
「大丈夫。ちょっと人が多いから疲れただけ」
葵は少し心配そうだったが、すぐにまた東京ドームの話に戻った。
品川で乗り換え。
山手線、そして水道橋へ向かう。
駅に近づくにつれ、理人と美羽のグッズを持つ人が増えていった。
東京ドームへ向かう人の流れ。
熱気。
期待。
歓声の予感。
葵はその中で、心から楽しそうにしていた。
達也もまた、娘の横顔を見ながら嬉しそうだった。
莉央だけが、足元が沈んでいくような感覚に襲われていた。
やがて、水道橋駅。
ホームに降りる。
人の流れに乗って、三人は東京ドームへ向かった。
葵が見上げる。
「うわ……」
目の前に、東京ドームがあった。
巨大な会場。
人の波。
応援旗。
ポスター。
そこには、理人と美羽の大きな写真が掲げられていた。
兄妹そろってチャンピオンベルトを肩にかけている。
葵は声を弾ませた。
「すごい……本物や……」
達也も感心したように言う。
「これはすごいな」
莉央は、ポスターの中の理人と目が合った気がした。
もちろん、ただの写真だ。
それなのに、胸が凍った。
あの黒い画面の声が蘇る。
俺は、お前らを許さない。
葵は東京ドームの入口へ向かいながら言った。
「理人さんも美羽さんも、どっちも勝ちますように!」
達也も笑って頷いた。
「そうだな」
莉央は、口を開けなかった。
祈れなかった。
応援もできなかった。
ただ、自分の過去がこの大きな光の中で暴かれていくような恐怖に、必死で耐えていた。
第4話「横須賀線の朝」。
葵にとっては、憧れのチャンピオンに会いに行く日。
達也にとっては、娘と楽しむ特別な一日。
けれど莉央にとっては、かつて自分が傷つけた兄妹の栄光を、家族の前で見せつけられる日だった。




