東京ドームの夜へ
少年法の壁 スピンオフ
莉央の娘 葵
第3話「東京ドームの夜へ」
夕食後のリビング。
テレビでは、伊達理人の世界タイトル防衛戦に向けた記者会見が流れていた。
会見場の中央に、理人が座っている。
隣には、対戦相手。
フラッシュが焚かれる。
記者の声が飛ぶ。
「今回の防衛戦は東京ドームでの開催です。今のお気持ちは?」
理人は落ち着いた表情でマイクを持った。
「大きな会場ですが、やることは変わりません。相手を尊重して、自分のボクシングをします」
葵はテレビの前で目を輝かせていた。
「かっこいい……」
父の達也もソファに座り、腕を組んでうなずく。
「やっぱり理人選手は落ち着いてるな」
葵は振り返った。
「お父さん、次も勝つよね?」
達也は笑った。
「勝ってほしいな」
「絶対勝ってほしい!」
葵は両手を握った。
その横で、莉央は台所に立っていた。
包丁を持つ手が、止まっていた。
テレビから理人の声が聞こえる。
低く、落ち着いた声。
かつて、黒い画面の向こうから聞こえた声と同じだった。
俺は、お前らを許さない。
莉央は息を飲み込んだ。
テレビの中の理人は、世界王者だった。
東京ドームのメインイベントを張る男だった。
葵の憧れだった。
達也が尊敬する選手だった。
そして、自分がかつて傷つけた相手だった。
ニュースは続いた。
「同日、東京ドームでは妹の伊達美羽選手も世界タイトル防衛戦に臨みます」
画面が切り替わる。
美羽が映った。
もう小さな女の子ではない。
堂々と会見席に座り、記者の質問に答えている。
「兄と同じ日に、同じ東京ドームで防衛戦を戦えるのは嬉しいです。ただ、リングに上がれば一人なので、自分の試合に集中します」
葵が声を上げた。
「美羽さんも出るんだ!」
達也も驚いたように言った。
「兄妹で東京ドーム防衛戦か。すごいな」
葵は嬉しそうに言った。
「どっちも勝ちますように!」
達也も笑う。
「そうだな。二人とも勝ってほしいな」
莉央は、台所で固まっていた。
美羽。
あの小さな美羽。
兄の後ろに隠れていた美羽。
泣きそうな顔で理人を見ていた美羽。
自分たちに嫌がらせされても、兄のそばから離れなかった美羽。
その美羽が、今は東京ドームで世界タイトル防衛戦を行う選手になっている。
葵はテレビに夢中だった。
「ねえ、お母さん!」
莉央は肩を震わせた。
「何?」
「東京ドームのチケット、取れないかな?」
莉央は言葉に詰まった。
「東京ドーム?」
「うん! 理人さんと美羽さん、同じ日に見られるんだよ!」
達也も少し笑った。
「まあ、すごい人気だろうから難しいかもな」
葵はスマホで検索を始めた。
「配信でもいいけど、会場で見たいなぁ」
莉央は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
会場に行く。
東京ドーム。
理人。
美羽。
その名前が、神谷家のリビングに自然に入り込んできている。
しかも、葵はもう気づき始めている。
港ヶ丘小学校。
横須賀。
卒業年度。
母と同じ小学校。
母と同じ世代。
今はまだ疑問で止まっている。
けれど、もう少し調べれば、たどり着く。
神谷莉央。
その名前に。
莉央は思った。
絶対に知られてはいけない。
この生活を失いたくない。
達也を失いたくない。
葵を失いたくない。
鉄工所のある家。
夕食のにおい。
娘の笑い声。
夫の穏やかな声。
そのすべてを守りたかった。
だが、守るために選ぼうとしているのは、また隠すことだった。
また逃げることだった。
莉央はそれに気づきながらも、止められなかった。
葵はテレビを見ながら呟いた。
「理人さんをいじめた人たちって、今どうしてるんだろ」
莉央の背中に冷たいものが走る。
達也は少し考えて言った。
「どうだろうな。ちゃんと反省しているといいけど」
葵は真剣な顔で言った。
「反省だけじゃなくて、ちゃんと謝っててほしい」
莉央は、まな板の上の野菜を見つめたまま動けなかった。
謝っていない。
一度も。
葵はさらに言った。
「だって、理人さんも美羽さんも人生変えられたんでしょ?」
「横須賀から飯山に行くことになったんでしょ?」
「それって、すごく大きいことだよ」
達也が頷く。
「そうだな」
葵はテレビの中の理人を見つめた。
「でも、そこからこんなに強くなったんだよね」
「すごいよね」
莉央の胸が痛む。
そうだ。
理人は強くなった。
美羽も強くなった。
自分が壊したものの向こう側で、二人は立ち上がった。
けれど、自分はどうだ。
母親になっても。
妻になっても。
今もなお、過去を隠している。
葵が不意に振り返った。
「お母さん、どうしたの?」
莉央ははっとした。
「え?」
「顔、怖いよ」
莉央は慌てて笑顔を作る。
「ちょっと疲れてるだけ」
達也も心配そうに言った。
「無理するなよ」
「うん。大丈夫」
大丈夫。
その言葉が、ひどく空っぽに聞こえた。
テレビでは、記者会見の最後に理人と美羽が並んで写真撮影に応じていた。
兄妹そろって、チャンピオンベルトを掲げる。
葵は嬉しそうに拍手した。
「二人とも勝ちますように!」
達也も笑って拍手した。
莉央だけが、拍手できなかった。
その夜。
葵が寝た後、莉央は一人でスマホを開いた。
検索欄に、震える指で文字を打つ。
伊達理人 横須賀 いじめ 神谷莉央
検索結果が表示される前に、莉央はスマホを伏せた。
見られない。
けれど、消えたわけではない。
自分が見なくても、そこにある。
葵が見つける日が来るかもしれない。
達也が知る日が来るかもしれない。
莉央は暗いリビングで、両手で顔を覆った。
東京ドームの夜が近づいている。
葵にとっては、憧れのチャンピオンを応援する夜。
達也にとっては、家族で楽しむスポーツイベント。
だが莉央にとっては。
自分の過去が、さらに大きな光を浴びて噴き出す前夜のように思えた。
第3話「東京ドームの夜へ」。
葵の憧れは、真っ直ぐだった。
達也の応援も、純粋だった。
しかしその光の中で、莉央だけが怯えていた。
いつか暴かれる過去。
そして、自分が守りたいものほど、その過去によって壊れていくかもしれないという恐怖に。




