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少年法の壁スピンオフ  作者: リンダ


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夕食の問い

 少年法の壁 スピンオフ

 莉央の娘 葵


 第2話「夕食の問い」


 神谷葵は、伊達理人のことを調べるようになった。


 最初は試合映像だった。


 世界タイトル戦。


 オリンピック決勝。


 防衛戦。


 海外の強豪を相手に、最後まで下がらず戦う姿。


 大きな相手にも怯まない。


 打たれても崩れない。


 苦しい場面でも、目が逃げない。


 葵は、その姿に憧れていた。


 本当に強い人だと思っていた。


 だからこそ、信じられなかった。


 その理人に、いじめられていた過去があることが。


 横須賀の小学校で苦しんでいたこと。


 妹まで巻き込まれたこと。


 家族で飯山へ転居したこと。


 葵は何度も記事を読み返した。


「こんなに強い人でも、そんなことがあったんだ……」


 葵の中で、理人はさらに大きな存在になった。


 強いから勝ったのではない。


 苦しんでも立ち上がったから強いのだ。


 そう思った。


 その夜。


 神谷家の夕食。


 食卓には、煮魚と味噌汁、ほうれん草のおひたしが並んでいた。


 父の達也は、仕事帰りで少し疲れていた。


 自宅兼鉄工所を継いだ達也は、今でも現場に出ることが多い。


 旧姓は立川。


 莉央と結婚する時、神谷家の鉄工所を継いでほしいという話になり、婿養子として神谷姓になった。


 達也は穏やかな人だった。


 葵にも優しい。


 莉央にも優しい。


 だから、葵はこの家を安心できる場所だと思っていた。


 葵は味噌汁を飲みながら、ふと聞いた。


「ねえ、お母さん」


 莉央は箸を止めた。


「何?」


「伊達理人さんって、なんでいじめられたんだろう?」


 その瞬間。


 莉央の中で、空気が凍った。


 箸を持つ指に、わずかに力が入る。


 達也は気づかず、顔を上げた。


「理人選手?」


「うん」


 葵は真剣な顔だった。


「だって、あんなに強い人でしょ?」


「世界中の強い人に勝って、ずっとチャンピオンで」


「なのに小学生の時にいじめられてたって、信じられなくて」


 達也は少し考えた。


「強い人でも、子どもの頃から強かったとは限らないからな」


 葵は頷く。


「そうなのかな」


 達也は続けた。


「それに、いじめって、相手が弱いから起きるとは限らないと思う」


 莉央の胸が痛んだ。


 達也は何も知らない。


 莉央が首謀者だったことを知らない。


 葵の憧れの理人を傷つけた側に、自分の妻がいたことなど、考えもしない。


 莉央は、息を整えながら言った。


「昔のことだし、詳しいことは分からないんじゃない?」


 自分でも驚くほど、声が乾いていた。


 葵は箸を置いた。


「でも、理人さんのSNSには、妹さんも巻き込まれたって書いてあったよ」


 莉央は目を伏せた。


「そう……」


「妹さん、かわいそうだよね」


 葵の声はまっすぐだった。


「お兄ちゃんを助けようとしただけなのに、嫌がらせされたんでしょ?」


 莉央は答えられなかった。


 横須賀の教室が頭をよぎる。


 理人の硬い表情。


 美羽の小さな背中。


 泣きそうな目。


 そして、笑っていた自分。


 葵は続けた。


「誰がそんなことしたんだろう」


 莉央の心臓が跳ねた。


 達也が言った。


「そういうことをした人たちも、今は大人になってるんだろうな」


 葵は少し怒ったように言った。


「ちゃんと謝ったのかな」


 莉央の喉が締まる。


 達也は静かに言った。


「謝っていてほしいな」


 莉央は味噌汁の椀を持ったまま、手が震えそうになるのを必死に抑えた。


 謝っていない。


 一度も。


 理人にも。


 美羽にも。


 伊達家にも。


 自分は逃げた。


 卒業して。


 中学に行って。


 高校に行って。


 大学へ行って。


 達也と結婚して。


 葵を産んで。


 母親になって。


 それでも、話さなかった。


 達也にも。


 葵にも。


 隠し通すつもりだった。


 この生活を失いたくなかった。


 鉄工所のある家。


 穏やかな夫。


 理人のファンになって、まっすぐ怒れる娘。


 自分には、もう過去など関係ない。


 そう思い込もうとしていた。


 葵がスマホを見せた。


「これ、理人さんの投稿」


 莉央は画面を見たくなかった。


 けれど、葵は無邪気に続ける。


「ここに書いてある。横須賀の小学校って」


 達也が少し驚いた。


「横須賀?」


 葵は頷く。


「うん。しかも港ヶ丘小学校だって」


 達也は莉央を見た。


「莉央、君の母校じゃないか?」


 莉央の背筋が冷えた。


「……そうね」


「じゃあ理人選手って、同じ学校の後輩か先輩だったのかな」


 葵がすぐに言った。


「卒業年度を見たら、お母さんと同じくらいだと思う」


 莉央は心臓を掴まれたような感覚に襲われた。


 達也が何気なく言う。


「同級生だったのか?」


 莉央は、ほんの一瞬だけ黙った。


 その一瞬を、葵は見逃さなかった。


 莉央はすぐに笑顔を作った。


「どうだったかな。昔のことだから、あまり覚えてない」


 嘘だった。


 はっきり覚えている。


 忘れたことなどない。


 理人の声。


 黒い画面。


 俺は、お前らを許さない。


 あの言葉は、今も胸の奥に残っている。


 葵は少し不思議そうな顔をした。


「お母さん、覚えてないの?」


「小学校の同級生って、覚えてるもんじゃない?」


 莉央は無理に笑った。


「人数も多かったしね」


 達也は特に疑わなかった。


「まあ、昔の同級生全員は覚えてないよな」


 葵は納得したようで、また食事を始めた。


 けれど、莉央の中では警報が鳴っていた。


 危ない。


 葵が調べ始めている。


 理人のSNS。


 記事。


 港ヶ丘小学校。


 卒業年度。


 自分の名前にたどり着くのは、時間の問題かもしれない。


 莉央は夕食後、台所で皿を洗いながら、何度も考えた。


 消せる記事はないか。


 検索しても出てこないようにできないか。


 葵のスマホを確認すべきか。


 達也に先に何か話しておくべきか。


 だが、すぐに首を振る。


 話せない。


 話したら終わる。


 この家を失う。


 達也を失う。


 葵を失う。


 莉央は蛇口の水を止めた。


 シンクに映る自分の顔が、ひどく強張っていた。


 葵の部屋から、理人の試合映像の音が聞こえてくる。


 実況の声。


 歓声。


 ゴング。


 葵の憧れの選手。


 自分がかつて傷つけた少年。


 その二つが、同じ人物として莉央の前に立ち上がっていた。


 第2話「夕食の問い」。


 葵の疑問は、ただのファンとしての素朴な疑問だった。


 誰が理人をいじめたのか。


 なぜ美羽まで巻き込まれたのか。


 けれどその問いは、神谷莉央が何十年も閉じ込めてきた過去の扉を、静かに叩き始めていた。

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