帰り道
少年法の壁 後日談
第24話「帰り道」
ジムのドアが閉まった後も。
こころは、その場から動けなかった。
秋生ジムの玄関前。
夕方の冷たい風が吹いている。
人通りは少ない。
山の向こうへ沈みかけた太陽が、長い影を作っていた。
こころはドアを見つめていた。
もう一度開くのではないか。
誰かが呼び止めてくれるのではないか。
そんな希望が、ほんの少しだけ残っていた。
だが。
ドアは開かなかった。
中から聞こえてくるのは、子どもたちの声だった。
「ナイス!」
「もう一回!」
「ガード上げて!」
理人の声。
光の声。
美羽の声。
三人はもう、自分たちのことなど見ていなかった。
こころは、その場に崩れ落ちた。
声にならない声が漏れる。
肩が震える。
涙が止まらない。
「ごめんなさい……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
理人にか。
美羽にか。
光にか。
それとも、自分自身にか。
莉央は何も言えなかった。
獅童も同じだった。
助ける言葉が見つからない。
慰める資格もない。
三人はただ立っていた。
しばらくして。
獅童が言った。
「……行こう」
その声だけが、妙に小さかった。
飯山駅前の安いビジネスホテル。
三人は別々の部屋を取った。
夕食も食べなかった。
話すこともなかった。
それぞれが、自分の部屋で天井を見ていた。
理人の言葉。
美羽の言葉。
光の言葉。
何度も頭の中で繰り返される。
許されなかった。
受け取ってもらえなかった。
救われなかった。
それが現実だった。
夜は長かった。
ほとんど眠れなかった。
朝。
まだ暗いうちにホテルを出た。
飯山駅。
始発列車。
ホームには旅行客がいた。
大きな荷物を持った家族。
子どもを肩車した父親。
笑いながら写真を撮る若い夫婦。
日曜日の朝特有の、どこか浮き立った空気。
それが三人には眩しかった。
列車が動き出す。
窓の外の景色が流れていく。
こころは窓際に座っていた。
向かいの席では、小さな男の子が母親に話しかけている。
「次どこ行くの?」
「お城見に行こうか」
「やった!」
その声を聞くだけで苦しかった。
こころは目を閉じた。
もう、自分の娘はあんなふうに話しかけてくれない。
思い出すのは、最後の会話だった。
「謝る相手が違う」
その言葉だけが残っている。
莉央も同じだった。
車内を見渡せば、家族ばかりだった。
弁当を広げる親子。
夫婦で観光地を調べる人たち。
孫を連れた祖父母。
どこを見ても、自分が失ったものばかりだった。
獅童はずっと下を向いていた。
向かいに座った父親が、息子にサンドイッチを渡している。
その光景が、どうしても目に入る。
ふと思い出す。
昔、自分も息子とサッカーを見に行った。
スタジアムで肩を組んだ。
帰りにラーメンを食べた。
「父さん、また行こうな」
そう言われた。
その息子は今、自分を見ようともしない。
列車は進む。
乗り換え。
また乗り換え。
長野。
山梨。
東京。
神奈川。
行きよりも、帰りの方が長かった。
同じ距離のはずだった。
同じ列車のはずだった。
だが、時間の流れが違った。
飯山へ向かう時は、まだどこかで期待していた。
もしかしたら。
会ってもらえるかもしれない。
謝罪を聞いてもらえるかもしれない。
少しだけでも、前へ進めるかもしれない。
だが今は違う。
何も残っていない。
理人は言った。
帰れ。
美羽は言った。
受け取りません。
光も言った。
私もです。
それが全てだった。
横須賀へ近づく頃には、三人とも疲れ果てていた。
身体ではない。
心が。
列車の窓に映る自分の顔は、何十年も老けたように見えた。
そして。
横須賀駅に着いた。
ホームに降りる。
見慣れた景色。
生まれ育った町。
かつて理人と美羽が暮らしていた町。
三人は無言で改札へ向かった。
誰も次の約束をしなかった。
誰もまた会おうと言わなかった。
言葉がなかった。
駅前で別れる。
こころは一人で歩き出した。
莉央も別の方向へ。
獅童もまた。
それぞれの、誰も待っていない家へ。
第24話「帰り道」。
飯山への旅は謝罪の旅だった。
だが帰り道は、それ以上だった。
失ったものを、一つ残らず見せつけられる旅だった。
家族。
信頼。
居場所。
そして、自分が二度と取り戻せない時間。
行きの列車も苦しかった。
だが帰りの列車は、それ以上だった。
許されないまま生きていく現実だけを抱えて、三人は横須賀へ戻ってきた。




