ACT 9-4
妙な感覚を覚えていたが、それを口にする事はなかった。それをする事で、彼女をまた不安にしてしまうかもしれなかったからだ。黙っていれば、それを感じる事も、知る事もなく、今は自分の世界に没頭できるだろう。
今、優愛はカンバスに向かって絵を描いている。
彼女なりに心を落ち着けようとしているのだろう。布団の中にもぐりこんだまま、動かないよりかは幾分かマシだろうと、ジンは思っていた。
最初は静かにしていようと、カンバスに向かう彼女の視界に入らないように、布団のところで雑誌を読んでいたのだが、彼女の要請で少し騒がしい方が集中できるとの事で、ジンはテレビを点けてそれを眺めている。
昨日家に帰ってきてから、ずっとこの調子である。無言のまま、カンバスに向かい、永遠に絵を描き続けている。時折、学校の教科書をめくりながら何かを確認し、本を閉じてはすぐにカンバスに絵を描く。
【間奏曲・前日・車内】
「PTSD? あぁ、紛れもない本物だよ」
「……あの……診断とか……しなくても、良いんですか?」
「んー。まぁ今のところは大丈夫じゃないかな」
「……そんなので、良いんですか? 病気、なんですよね?」
「まぁね。だけど、今は前みたいにパニックになっても気を失ったり、しないだろう?」
「確かに、そうですけど」
「それとも、こんな状況でも治療したいと思うかい? 一応、カウンセラーは私の方は専門外なんだがねぇ。それ系はあっちの仕事だ」
「あっち……」
「私は正直よく解らない。気になるんだったら、向こうが帰ってきた時にでも聞いてくれ」
「はぁ……え、と……結局、たいした意味はないんですね?」
「たいした意味?」
「今のこの状況と、病気の関連性とか……ちょっと、タイミングが良すぎたかな……って」
「…………」
「……山田さん?」
「え、あぁ……うん。まぁたいした意味はないね。偶然が重なっただけだよ」
「……」
「……」
「…………あの」
「なに?」
「……いつもの、その、別の方の人格の方は出てこないんですか……?」
「あぁ、ちょっとな。今忙しいんだ」
「忙しい? ……人格、ですよね? なにか……やるんですか? その……ピンとこないんですが……」
「まあそれはおいおいと云うか、もし気づく事があったらね
―――学校、着いたよ」
【間奏曲・前日・車内・了】
そこからは手続きや、何かと説明を受けていた。ジンは学校の廊下で待っていた為に、その詳しい内容までは聴いていなかったが、すぐに話はまとまったのか、三〇分ほど待たされただけで済んだ。
優愛はそれ以上なにも聴かなかった。聴いても無駄だと思ったのか、それとも納得のいく回答を得る事が出来たのかどうかは解らない。その後、悠里と別れたあとは、何気ない会話を少しだけ交わしたあと、部屋に戻ってからはこうしてカンバスに向かっている。
しかし、いつまでもテレビを眺めているのも、一度見た雑誌を読み直すのには若干飽きつつある。テレビは時間に応じて番組が変わり、内容も変わるのだが、雑誌に至っては新しい内容になるのは一週間後になる。
視線を彼女に向けるのだが、彼女は自分の世界に入ってしまっているせいか、こちらが眺めているのに気づいていない様子だ。
〝……なにを描いているのかな〟
そう思ったジンは、腰を上げて、一旦は玄関の方に行く素振りを見せてから、すぐに踵を返して彼女のカンバスの後ろの方に向かった。
カンバスに描かれていたのは、この場所にあるどれにも当てはまらない景色であった。視線を下の方に落とすと、彼女が時折めくっていた教科書に似たような構図の絵があるのが見える。どうやら、それを手本として描いているらしい。
絵について、ジンは良く解らない。この世界の漫画と呼ばれるものは面白いと思うのだが、優愛が描いているような静止している空間をそのまま描く―――風景画・模写などの類―――事にはあまり関心が沸かなかった。
優愛の絵が下手だと言っている訳ではなく、純粋に彼女の描く絵は「上手い」と思っている。だが、関心が沸かないだけだ。
他人の関心を惹くものを作るのは難しい。流行などに囚われず、自分の持つ感性の中でそのときの「最高」を作る。それが人に評価され、後世にまで語り継がれていく作品など、そうは存在していない。
けどやはり、悠里が評したとおり、彼女の描く絵は、全く絵を描かない人間からすれば充分上手い。そう言った言葉を彼らが求めていないのは、ジンも察しがついていた。
彼らは常に自分よりも上の人間がいる状況の中で作品を作り続けているのである。評価されず、それでも自分が「好き」だからと云う理由で……
優愛は一体、絵を描く事のどこが好きなのだろうか。
ジンはふと、そう思った。
「ねぇ」
邪魔したら悪いと思ったが、しかし、ジンはその好奇心を抑える事が出来ず、つい、口を開いてしまったのだ。
「……」
ゆっくりと顔をこちらに向けた優愛は、一瞬視線をテレビの方に向けて、いつの間に、と言ったような驚いた顔をした。ジンがそちらに向かった事に気づかないほど集中していたらしい。
「……なに……?」
「いや、ちょっと気なる事があって」
「……なに?」
「キミはどうして絵を描くのかなぁって、何が楽しいのかなぁって」
しばらく、筆を止めて考えているような素振りを優愛はしたが、一〇秒後にはまた筆を動かし始めた。
解答はすぐには得られなかったが、絵を再開してしばらくしたときに、おもむろに口を開いた。
「……私の世界が……描けるから……………………だと思う」
そう答えた。
「私の世界」。
自分だけの、誰にも邪魔される事のない理想郷。彼女が欲していたのはそんな場所であり、しかし、それを手に入れる事はとても難しい事であった。
世間には、人間がいる。当然の話で、この世界に「人間」と呼ばれる種族は数億人も存在しているのである。この星で繁殖に成功した彼らは、いまやこの世界の資源などを実質支配しているような状況だ。
道を歩けば嫌でも他人がそこにいる世界。そこに自分の居場所を作るのは容易ではない。
「どこに行っても、そこに自分の場所を作れば良いんじゃないの?」
ジンはそう言うが、そんなに簡単に出来れば苦労しない。
「……自分の事を嫌いな人間もいるし、邪魔だと思う人もいるんだよ……」
自分自身は何もしていないと思っているつもりでも、知らずの内に他人を傷つけているかも知れないし、その逆もまたある。見えない棘が、いつ他人を傷つけているかも解らないこの世界で、本当の意味で悩みのない、安心した場所は存在していない。
「つまり、そう言う事がないように生きたいって事?」
「…………ん、まぁそうかな……」
他人を関わらないのもまた不安になる。しかし、他人と関わる事で傷つける事も、傷つく事も嫌だから、極力誰とも関わらないように勤めているつもりである。
その中で、他人に唯一自分が発信する関わりこそが、「絵を描く」と云う事なのではないのだろうか。―――優愛は、ふと思った。
絵を描く事自体を不思議に感じた事もないし、そう言った哲学がある訳でもない。純粋に好きだから、他にやる事がないからこうしているだけだ。他にやるべき何かがあるのなら、そちらを優先するだろう。ただ、優愛にはそれがなかっただけの話だ。
「趣味ってヤツだ」
ジンは相槌をうつ。
「…………あなたも、漫画好きでしょ…………」
「そうだね。これは面白いよね」
週刊誌らしき漫画を彼はよく買ってくれるようにねだる。今彼が読んでいる雑誌は、優愛が買い与えたものではなく、ユウスケが置いていったものだ。自分で持ってきたのだから、出来ればそれを持って部屋に戻ってもらいたかったものだ。
「……そういえば」
今日はまだユウスケの姿を見ていなかったな、と優愛は思い出す。
朝には姿を見せていなかった。昼間に顔を出す事もなかった。
とは言え、優愛にしてみれば、自分は何も解っていない戦いの素人だ。しかしユウスケはどうやら山田悠里と同じような存在らしいので、そう言った事にはなれているのだろう。よくも解らない情報を集めているのかもしれない。
別に居ない事に何ら問題もジンは感じないのだが、優愛は少し心配している様子である。無論、それはユウスケの身を案じている訳ではなく、自分自身の安全なのだが……
そんなものはどうせ時間が解決してくれる。時間が経ち、夜も深くなってくれば、彼も戻ってくるだろう。優愛はそう思う事にした。
「それより」
ジンがおもむろに冷蔵庫の中を開ける。
「食べるもの何もないけど大丈夫?」
「え」
その言葉にはさすがの優愛も耳を疑う。いつの間に、冷蔵庫の中身がなくなっていたのだろうか。
そこまで考えて、そもそも食事する人数が純粋に増えていると云う点と、最後に冷蔵庫の中身を確認して料理を作ったのはいつだっただろうか。ここ数日、外食の方が多かった気がする。
ここで再び外食にしてしまうと悪循環である。ジンと云う同居人の事を考えると、毎日外食をすればあまり金を使わない優愛ですら、じきに資金が枯渇するだろう。仕送りは毎月一五日で、まだ今日は二日。一〇日以上の日にちが存在しているのだ。
とりあえず、財布の中身を確認する事にした。
優愛はベッドの上に無造作に置いてある財布の中身を確認する。すると、そこには千円札が二枚入っていた。あと小銭が幾つか。
仕送りの資金があとどれだけ残っていたか細かいところは覚えていないが、それなりに残っていたように記憶している。しかし、それを無為に外食に使うのもまた自分の両親たちに申し訳ないような気がする。
自分の勉学に必要な美術用品にはあまり抵抗を感じていない上に、CDなどを買うのにも抵抗を示さない。だと云うのにそういった箇所では考えてしまう。優愛は我ながらおかしな思考だ、と感じる。
なんにせよ、あまり外食だけで済ませるのも面倒な上に、無駄に外に出てしまう。なるべく今は外に出たくない。
買いだめをしないとならないかもしれない。この前―――ジンと初めて出会った夜―――買い込んだ食糧はすぐになくなってしまった。今度はふたりだと云う事を考えて食料を買い込む事にする。出来れば、これから一週間程度は保つ量を買い込みたい。
「……剣なのに食事が必要なのね……」
「まぁ、一応生きてるからね。本当に申し訳ない」
「……ううん。守って……貰ってるし……」
その辺りは感謝している。
財布の中身をもう一度チェックして、優愛は部屋から出る決意をする。何も食べずに生きていく事は不可能で、人間は生きている限りは食事をしなければならない。
優愛は死にたくない。だから、この戦いで生き残らなければならない。
優愛は死にたくない。出来れば、何もせずこのまますべてが終わってくれる事を願っている。
優愛は死にたくない。そう言った事に巻き込まれたくない。だから極力家で引きこもっていたい。
優愛は死にたくない。とは言え、食べるものがなくなる事で餓死するのも嫌だ。
「……じゃあ、準備するから……玄関前で待ってて……」
「ん。解ったよ」
笑顔で、ジンは玄関に向かって歩いて行った。
扉を開けて外に出て行く姿を確認してから、優愛はシャワーを浴びる為に服を脱ぐ。




