インフレ
電気、ガス、水道は、途切れたりするものの断続的に使えた。
最初は、誰もがどうにかなると思っていた。
誰かがどうにかしてくれると思っていた。しかし、この国は全く助けてくれなかった。
デフォルト宣言は、宣言の深刻さ以上に、国家が国民を見放している宣言のように思えた。
ときおりテレビは電源がついた。ニュースでは、日々誰かが責任転換している話ばかりが聞こえた。
翌朝、俺が階下に降りると、父さんはすでに店のカウンターに座り、伝票を数えていた。母さんは、慣れない手つきで、店にある食料品の値札を貼り替えている。昨日の「物価上昇」は、今や「ハイパーインフレ」へと変貌を遂げていた。
「父さん、母さん…」
「ああ、翼。おはよう」
父さんが顔を上げた。その顔には、疲労と、かすかな諦めが滲んでいた。
「これ、見てみろ」
父さんは、一枚の紙を俺に差し出した。それは、昨日の仕入れ伝票だった。普段なら100円程度のペットボトル飲料が、昨日の時点で既に200円。それが今朝には、500円になっていた。乾麺も、昨日の倍以上の値段がついている。
「…昨日、200円だったジュースが…」
「ああ。この調子だと、明日にはどうなっているか、見当もつかない」
母さんが、震える声で言った。
「こんな値段じゃ、誰も買えないわよ…」
「それでも、仕入れ値は上がってるんだ。このままじゃ、店はすぐにつぶれる…」
父さんの言葉は、現実を突きつけてきた。八百屋としての、俺たちの生活基盤が、音を立てて崩壊していく。
「父さん、店は、どうなるんだ?」
「さあな…」
父さんは、力なく肩をすくめた。
父さんは、店の奥、窓の外の裏庭を指差した。そこには、俺と父さんが、昨日から懸命に耕した、まだ見慣れない土の区画が広がっていた。
「近所の人たちも、みんな困ってる。このままじゃ、みんな飢え死にするかもしれない」
母さんの顔には、深い不安が刻まれていた。
「でも、父さん、母さん。俺たちは、まだ、諦めない」
俺は、自分でも驚くほど、はっきりとした口調で言った。
「店にはかなりの食料があった。これだけあれば家族だけなら3ヶ月はもつ。その間に、幸い家には広い庭があるし、1ヶ月程度で育つ野菜から作り始めよう。そして、食料に限らず、物々交換に使えるものを確保しよう。」
父さんの表情が、わずかに変わった。
「翼…」
「俺たちが、まず、自分たちの食料を確保する。そして、もし余裕があれば、近所の人たちにも、分け与える。そうすれば、きっと…」
「…俺たちが、食料の、一部でも、支えられれば。そうすれば、きっと…」
「…そうだな。翼の言う通りだ」
父さんが、ゆっくりと頷いた。その目には、先ほどまでの諦めではなく、決意のようなものが宿っていた。
「俺は、畑仕事に専念する。翼は、弟の帰りを待ちながら、できる限りの情報を集めてくれ。母さんは、店の備蓄食料を管理してくれ」
父さんの言葉に、俺たちは、ただ頷いた。
その日の午後、俺は、家の周りを歩き回った。商店街は、昨日とは打って変わって、静まり返っていた。それでも、時折、家の窓から漏れる明かりや、低い話し声が聞こえてくる。人々の生活は、まだ、完全には止まっていない。だが、その顔には、隠しきれない不安と、警戒心が漂っていた。
「…高ぇ…」
ふと、立ち寄ったコンビニの店先で、惣菜の値段を見て、思わず声が出た。昨日まで300円だった唐揚げ弁当が、1000円に値上がりしている。500円玉を握りしめ、店員に「これ、本当?」と尋ねたが、店員は、ただ虚ろな目で首を振るだけだった。
「…ま、こういう世の中になっちまったんだよ」
その言葉が、俺の胸に重く響いた。
この世界は、もう、元には戻らない。俺は、この状況で、家族を守り、そして、この先、何ができるのか。
弟が、無事に早く帰ってくることを祈りながら、俺は、必死に、その答えを探し始めた。
「…ここも、もうダメか」
父さんの声が、店の奥から聞こえてきた。背中を向けたまま、父さんは、カウンターに積まれた伝票を眺めている。その肩は、普段よりも幾分か沈み込んでいるように見えた。
「昨日、仕入れたばかりの野菜が、もう…」
母さんも、力なく呟く。店頭には、まだ多少の食料品は残っているものの、そのほとんどが、昨日のうちに値札を貼り替えた、法外な値段のものばかりだ。誰も、それを買う余裕はないだろう。
「店は、しばらく閉めた方がいいかもしれない」
俺は、意を決して言った。父さんは、ゆっくりと顔を上げ、俺を見た。その目に、失望の色はなかった。むしろ、静かな覚悟のようなものが宿っているように見えた。
「そうだな。翼の言う通りだ。これ以上、仕入れ続けるのは無理だろう」
父さんは、そう言うと、伝票をカウンターに置いた。




