種まき
2000年代になりハイパーインフレを起こしたジンバブエでは、多くの餓死者が出た。食料の確保は、優先事項だ。
我が家の八百屋の運営は本当に厳しかったらしい。
こんな非常事態でも慎ましい、いつも通りの買い物客ばかりだったようだ。その代わりに買い占めからは逃れられていた。
「…そうだな。翼の言う通りだ」
父さんは、俺の提案に頷いた。俺が、指示を出す。それが、今までありえなかったことだった。
「母さんは、次に水道が出ることがあったら、清潔な水をできるだけためてほしい」
ハイパーインフレ下のジンバブエではコレラが大流行している。水は今後必要になるだろう。
「俺は、弟に連絡してみる。状況を確認しないと」
俺は、弟からの連絡で「物流が止まるかもしれない」という話を聞いていた。もし弟も同じような状況なら、早めにこちらに帰ってくるよう促すべきだ。
スマホは圏外だった。充電器に繋いでも、電源すら入らない。結局、固定電話を試みるしかなかった。受話器を取ると、ツー、ツー、という無機質な音が響くだけで、回線は完全に死んでいた。
「…ダメだ」
携帯も、固定電話も、繋がらない。情報が遮断された。それは、想像以上に恐ろしいことだった。
「店には、まだ乾麺とか、缶詰とか、いろいろ残ってるはずだ。水も、ペットボトルの備蓄があったはずだ」
俺は、再び二階の自室に戻った。窓から外を見ると、近所の家々も、ほとんど明かりが消えている。朝の静けさとは違う、不穏な静寂が街を支配していた。
「…何が起きているんだ?」
ネットが使えない。テレビも映らない。弟の安否も分からない。まるで、世界から切り離されたような感覚だった。
しばらくして、父さんと母さんが、店の奥からいくつかのペットボトルと、数箱の乾麺、缶詰を運び出してきた。
「翼、これだけじゃ…」
母さんの不安げな声。確かに、これだけではいつまで持つか分からない。
「父さん、昔、自分でも家の庭に畑とか、作ってたよな? 少しでもいいから、何か植えられるものはないか?」
「畑…? いや、もう何年も手をつけていないが…」
「でも、少しでも…」
俺は、必死に考えた。このまま何もせず、ただ待っているわけにはいかない。
その時、遠くから、何かの音が聞こえてきた。最初は微かな音だったが、次第に大きくなっていく。それは、サイレンのような、けたたましい音だった。
「なんだ…?」
父さんが、再び窓に駆け寄る。俺も、急いで窓の外を見た。
街を横切るように、一台のパトカーが、サイレンを鳴らしながら猛スピードで走り去っていく。その後ろには、数台の車が続いている。
「…状況は、悪化している」
父さんの声が、重く響いた。
「…俺、少し、外の様子を見てくる」
「待て! 翼!」
父さんの制止を振り切るように、俺は家を出た。
窓から一歩踏み出した瞬間、空気の冷たさと共に、異様な静けさが全身を包み込んだ。いつもの、穏やかな商店街の風景は、どこにもなかった。ほとんどの家で明かりは消え、人の気配も希薄だ。それでも、所々で、怒鳴り声のようなものが聞こえてくる。
「おい、そこ、通るな!」
角を曲がったところで、俺は二人の男が揉めているのを目にした。一人は、痩せた男が、もう一人に掴みかかっている。掴みかかられた男は、顔色を変え、その手を振り払おうとしていた。
「離せ! 何様のつもりだ!」
「てめぇ、昨日、俺が並んでたのに、一番前に割り込みやがっただろう!」
「んなこと、知るか! 今日はもう、残ってるもん全部買い占めてやる!」
言葉の応酬は、すぐに緊張感を孕んでいく。痩せた男が、掴みかかられた男の腕を掴み、力を込めて揺さぶった。男は顔色を変え、必死に抵抗している。
「くそっ!」
俺は、その場に立ち尽くしていた。どうすることもできない。ただ、目の前で繰り広げられる、醜い争いを眺めることしかできなかった。これが、俺が「平和だ」と信じていた日本の、現実なのか?
「…この場は一度立ち去ろう」
本能が、そう告げていた。このままここにいたら、自分も巻き込まれる。しかし、その言葉が、胸の奥で、重く響いた。
俺は、踵を返した。男たちの怒声が背中に突き刺さる。振り返ることはしなかった。
家路を急ぐ足取りは、先ほどよりも速かった。街は、静寂と、時折聞こえる怒声、そして、どこか遠くから響くサイレンの音だけが、異常な現実を際立たせていた。
家にたどり着き、ドアを開けると、母さんが心配そうな顔で出迎えた。
「翼! 大丈夫だった? 外は、ひどいことになっているって…」
「大丈夫だよ。…父さんは?」
「父さんなら、店の裏で、畑の準備を始めたよ。翼に言われたからって、耕し始めたんだ。…でも、翼、さっき弟から、やっと連絡が…」
「えっ! 弟から?」
俺は、慌てて父さんの元へ向かった。店の裏手、狭いながらも、父さんが懸命に土を耕している。
「…父さん、弟から?」
「ああ。さっき、どうにか繋がったんだ。あいつの会社が、経営状態の悪化で、今日から一時的に操業停止になったらしい。だから、うちに帰ってくるって言ってた」
「操業停止…? 休職ってことか?」
「いや、休職というより、会社自体が、というか、色々なものが止まってしまった、という感じだ。あいつの職場も、もう機能していないらしい」
父さんの言葉は、俺が想像していたよりも、事態の深刻さを物語っていた。弟は、俺が昨日連絡を試みた時は、まだ職場にいたはずだ。それが、今日には、もう会社が止まり、実家へ帰ってくるという。
「翼。お前が、弟の分も、家族の分も、考えてくれているのは、ありがたい。だが、俺も、もう一度、店の在庫をちゃんと確認する。それに、畑の準備も、もっと進めないとな」
父さんの言葉に、俺は、自分の役割を改めて認識した。弟が帰ってくる。それは、家族が一人増えるということだ。そして、この混乱した状況で、弟の身を案じ、彼を迎え入れる準備をしなければならない。
「分かった。俺は、弟が帰ってくるまで、家の周りの見回りと、食料の配給について、何か情報がないか、探してみる」
父さんは、俺の言葉に、力強く頷いた。
「頼んだぞ、翼」
その夜、俺たちは、店の奥から運び出した乾麺と缶詰、そして、父さんが父さんの手で耕した畑に植えるための種や苗を、リビングに並べた。外は、断続的に聞こえるサイレンと、時折響く怒号以外は、完全な静寂に包まれていた。
テレビも、ラジオも、沈黙したままだ。俺たちは、まるで、外界から切り離された、小さな孤島にいるような感覚だった。




