第九話「宮島の潮」
第一場 原爆ドーム
広島市内に入ったのは、昼過ぎだった。
「ちょっと止めてくれる?」
美月が言った。辰夫が路肩に車を止めた。
美月が降りた。辰夫も降りた。
原爆ドームが、川の向こうに立っていた。
青い空に、崩れたままの骨格が浮かんでいた。補修しない。壊さない。そのままで、そこにある。
二人は黙って見ていた。
風が吹いた。川面が揺れた。
しばらくして、美月が歩き出した。
「行こう」
辰夫が頷いた。
それだけだった。
第二場 宮島へ
宮島口からフェリーに乗った。
十分ほどの船旅だった。甲板に出ると、潮の匂いがした。海の向こうに、大鳥居が見えてきた。
「きれいだねえ」
「潮が引くと、歩いて近づける」
「満潮の時は?」
「海に浮かんで見える」
美月が鳥居を眺めた。
「どっちがきれいかねえ」
「どっちも本物だ」
美月はその言葉を聞いて、もう一度鳥居を見た。満潮でも干潮でも、本物。どちらの自分も本物。そういうことかもしれない、と思った。
島が近づいてきた。鹿が桟橋の近くをうろうろしていた。
第三場 健太との出会い
島の参道を歩いていると、土産物屋が並んでいた。
もみじ饅頭、牡蠣、しゃもじ。どの店も賑わっている。その中の一軒に入った。
若い男が接客していた。愛想はよかった。でも、どこか上の空だった。笑顔の奥に、別のことを考えている目をしていた。
「もみじ饅頭、旨いかい」
「はい、人気ですよ」
「あんた、顔が暗いよ」
男が少し驚いた顔をした。
「そうですか?」
「そうだよ。何か悩んでるんだろ」
その時、店の奥から子供が走ってきた。
「とうちゃん! 鹿がいた! 大きい鹿!」
男の顔が、一瞬だけ変わった。目が細くなって、口元が緩んだ。悩みが全部消えたような顔だった。
美月はその顔を見た。
ほっとけない、と思った。またか、とも思った。
第四場 蓮と美月
「おねえちゃん、鹿見た?」
子供が美月を見上げて言った。四歳くらいだろうか。丸い目をしていた。
「まだだよ」
「一緒に見に行こう!」
子供が美月の手を引っ張った。美月は引っ張られるままについていった。辰夫が後ろからついてくる。
「名前は?」と美月が聞いた。
「れん!」
「蓮か。いい名前だねえ」
「おねえちゃんは?」
「美月だよ」
「みつき!」
蓮が復唱した。嬉しそうだった。
鹿が参道の端でのんびりしていた。蓮が近づくと、鹿が顔を上げた。蓮が大喜びで飛び跳ねた。
美月が笑った。
辰夫が少し離れたところで見ていた。珍しく、口の端が上がっていた。
夕方、健太が仕事を終えて合流した。妻の咲も一緒だった。穏やかな目をした女性だった。六人で海沿いを歩いた。蓮が辰夫の手を掴んで歩いた。辰夫が困った顔をしたが、振り払わなかった。
第五場 健太の悩み
夜、咲と蓮が先に宿に戻った後、健太が美月の隣に座った。
「転職、考えてるんです」
「なんで」
「給料が安くて。家族に申し訳なくて」
「奥さんは何て言ってるんだい」
「今のままでいいって。でも、気を遣ってると思って」
美月がビールを一口飲んだ。
「奥さんに直接聞いたの?」
「……聞いてないです」
「なんで」
「怖くて」
美月が黙った。
「気を遣われてるって思ってるのは、あんたが勝手に思ってるだけかもしれないよ」
健太が俯いた。
「でも、こんな給料で、家族を養えてるのか、毎日不安で」
「蓮の顔、見たかい。さっきの」
「さっき?」
「鹿を見て飛び跳ねてた時の顔」
健太が黙った。
「あの顔させてるの、あんただよ」
海が暗くて、波の音だけが聞こえた。
第六場 咲の言葉
翌朝、蓮が鹿を追いかけている間に、美月が咲と並んで座った。
「旦那さん、転職悩んでるみたいだねえ」
「話したんですか、あの人」
「少しね。奥さんはどう思ってるんだい」
咲が蓮を目で追いながら言った。
「今のままでいいんです、本当に。蓮がね、毎日『とうちゃん大好き』って言うんです。それだけで十分だって思ってて」
「それ、旦那さんに言ったの?」
「言ったんですけど、信じてくれなくて」
美月が笑った。
「男って、そういうとこあるねえ。大事なこと言われても、素直に受け取れないんだよ」
「美月さんも、そういう人がいるんですか」
美月が少し間を置いた。
「……いるよ。不器用な人が隣にいる」
咲が微笑んだ。蓮が鹿に向かって走っていった。
第七場 美月が健太に言う
夕方、美月が健太を呼んだ。
「奥さんがさ、蓮が毎日『とうちゃん大好き』って言う、それだけで十分だって言ってたよ」
健太が黙った。
「気を遣ってるんじゃないよ、あの人。本当にそう思ってるんだよ」
健太の目が少し潤んだ。
「……俺、ちゃんと聞いてなかったんですね」
美月がビールを置いた。
「幸せって、遠くにあるもんじゃないよ。蓮の笑顔、毎日見てるんだろ。それがあんたの稼ぎだよ」
健太が頷いた。大きく、頷いた。
第八場 出発の朝
ハイエースに荷物を積んでいると、健太と咲と蓮が来た。
蓮が走ってきて、美月に抱きついた。
「おねえちゃん、また来てね」
「また来るよ」
美月が蓮の頭を撫でた。蓮が辰夫を見上げた。
「おじちゃんも来てね」
辰夫が少し固まった。美月が笑いをこらえた。
「……ああ」
辰夫が短く答えた。蓮が嬉しそうに笑った。
健太が頭を下げた。
「ありがとうございました」
美月がドアに手をかけて、振り返った。
「健太くん」
「はい」
「家族の笑顔を守れる仕事が、一番給料のいい仕事だよ」
健太が頷いた。咲が微笑んだ。蓮が手を振った。
ハイエースが動き出した。フェリー乗り場へ向かう道で、大鳥居が見えた。潮が満ちていて、鳥居が海に浮かんでいた。
「また、いい島だったねえ」
「そうだな」
美月は窓の外を見ながら、小さく笑った。
「おじちゃん、だってよ」
辰夫が黙った。でも、口の端が動いた。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、蓮が「おねえちゃん」と呼んでくれた声が、耳の奥にずっと残っていた。
(第九話 了)




