第十話「神戸の灯り」
第一場 神戸の夜景
神戸に入ったのは、夜だった。
六甲山から下りてくる道で、街の灯りが広がった。海まで続く灯りが、夜の中に散らばっていた。港の灯りが、水面に映って揺れていた。
「きれいだねえ」
「百万ドルの夜景と呼ばれてる」
「百万ドル、か。あたしには縁のない話だねえ」
「夜景は無料だ」
美月が笑った。
「そうだね。無料でこれが見られるなら、悪くないよ」
灯りの中に、神戸の街があった。震災から立ち上がった街が、今夜も光っていた。
第二場 ジャズバー
北野の坂道を歩いていると、音が聞こえてきた。
ジャズだった。ドアの外まで、トランペットの音が漏れていた。小さな店だった。看板に「BAR KOBE」と書いてある。
「入ろう」
美月が言った。辰夫が頷いた。
木のカウンターに、年季の入った椅子。壁にレコードのジャケットが飾られている。奥にスピーカーがあって、古いジャズが流れていた。
カウンターに、六十代の男がいた。白髪で、背が高い。黙って拭いているグラスを、美月たちを見て置いた。
「いらっしゃい」
美月がカウンターに座って、棚を見た。ウイスキーが並んでいる。その一番端に、トランペットが飾ってあった。
「あのトランペット、吹かないの」
「吹くんだ、トランペットは」
「……飾りだよ」
「もったいないねえ」
男が少し目を細めた。
第三場 修一の話
ウイスキーを頼んだ。
男は修一といった。六十五歳。この店を三十年以上やっていると言った。
「若い頃は、トランペット奏者を目指してたんですか」
「そうだよ。でも震災で店が全壊した。仲間も何人か、いなくなった」
「それでも、また同じ場所に建てたんだねえ」
「ここしかなかったから」
美月がウイスキーを一口飲んだ。
「でも、もう吹かないの」
「……吹けないんだ」
「怪我でもしたの」
「違う」
修一がグラスを拭く手を止めた。
「震災の前と後で、同じ音が出る気がしなくて。前の自分の音には、もう戻れない気がして。だから怖くて、吹けない」
美月が黙った。
スピーカーからジャズが流れていた。トランペットの音が、店の中を満たしていた。
「ねえ、修一さん」
「何だ」
「震災の前の音に、戻らなくていいんじゃないかい」
第四場 美月の言葉
「戻らなくていい?」
修一が美月を見た。
「そう。震災の前の修一さんと、今の修一さんは別人だろ。別人が吹いたら、別の音が出るだけじゃないかい」
修一が黙った。
「……三十年、同じことを考えてた」
「何を」
「戻れないって。前の自分には、もう戻れないって」
美月がグラスを置いた。
「あたしもそうだよ。昔の自分には戻れない」
「あたし、ストリッパーなんだよ」
修一が少し目を丸くした。
「脱いで踊る仕事。今でも舞台に立つたびに、昔の自分と比べることがある。若い頃の体じゃない、若い頃の動きじゃないって。でもさ」
美月が修一を見た。
「今のあたしが踊るから、今の音が出るんだよ。昔の音じゃなくていい。今の音でいいんだよ」
修一が棚のトランペットを見た。
長い沈黙だった。スピーカーの音だけが流れていた。
第五場 辰夫の一言
辰夫がカウンターで、静かにウイスキーを飲んでいた。
修一がトランペットを見つめていた。立ち上がりそうで、立ち上がれない。そういう時間が続いた。
辰夫が口を開いた。
「吹いてみろ」
修一が辰夫を見た。
「……三十年、吹いてない」
「だから吹いてみろ」
それだけだった。
修一がゆっくりと立ち上がった。棚に手を伸ばした。トランペットを取り下ろした。三十年分の埃を、袖で拭いた。
第六場 トランペットの音
修一がトランペットを構えた。
しばらく、そのまま動かなかった。目を閉じていた。
美月も辰夫も、黙って待った。
音が出た。
最初は掠れていた。震えていた。三十年のブランクが、音に滲み出ていた。でも修一は止めなかった。吹き続けた。
だんだん安定してきた。
震災前の音じゃなかった。もっと低くて、もっと重くて、でも温かい音だった。三十年分の時間が、その音に乗っていた。
美月の目が、じわりと潤んだ。
辰夫がグラスを静かに置いた。
修一が吹き終わった。トランペットを下ろした。目が赤かった。しばらく誰も何も言わなかった。
「……違う音だ」
修一がつぶやいた。
「そうだよ」と美月は言った。「今の音だよ」
修一が笑った。泣きそうな顔で、笑った。三十年分の何かが、その笑顔に滲んでいた。
美月は目を拭った。拭いながら、「あたし、感動してるよ」と小さく言った。誰に言うでもなく。
第七場 夜道の会話
宿に戻る夜道、美月が黙っていた。
港の灯りが見えた。神戸の夜は明るかった。
「どうした」と辰夫が言った。
「感動した」
「珍しいな」
「そうかい。あたしだって感動するよ」
辰夫が黙った。
「修一さんの音、よかったねえ。震災前の音じゃないけど、今の音だから、よかった」
辰夫が少し間を置いて言った。
「お前の踊りも同じだ」
美月が立ち止まった。
「今の音だから、いいってこと?」
「ああ」
美月が歩き出した。
夜の神戸の灯りが、海に映って揺れていた。美月はその灯りを見ながら、歩いた。今の自分の音。今の自分の踊り。それでいい。そういうことだと思った。
第八場 出発の朝
翌朝、修一がバーの前に立っていた。
手にトランペットを持っていた。
「昨夜、また吹いた。朝まで」
「よかったねえ」
美月が笑った。
「美月さん」
「何?」
「あなたの踊り、いつか見たいな」
美月がドアに手をかけて、振り返った。
「神戸に小屋ができたら来てよ」
「小屋?」
「あたしの夢。自分のストリップ小屋を持つこと」
修一が少し驚いた顔をして、それから笑った。
「できたら、こけら落としで吹いてやる」
美月の目が少し光った。
「約束だよ」
ハイエースが動き出した。北野の坂道を下りていく。港が見えた。朝の海が、光を受けて輝いていた。
「また、いい街だったねえ」
「そうだな」
美月は窓の外を見ながら、修一のトランペットの音を思い出していた。掠れて、震えて、でも温かかった音を。
「こけら落としで吹いてやる、か」
美月が小さく呟いた。
辰夫は何も言わなかった。でも、少しだけ口の端が動いた。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、修一の言葉が夢を少しだけ近くした気がした。いつか、自分の小屋で。修一のトランペットと一緒に踊る日が来る。そう思えた。
(第十話 了)




