第八話「土佐の意地」
第一場 四万十川
高知に入ると、川が見えてきた。
四万十川だと辰夫が言った。川幅が広くて、水が透き通っていた。夏の光を受けて、川面がきらきらと光っている。沈下橋が川の上に低く架かっていて、欄干がない。水位が上がると沈む橋だと辰夫が教えてくれた。
「きれいな川だねえ」
「最後の清流と呼ばれてる」
「最後って、なんか寂しい言葉だねえ」
「なくなってないから、最後じゃない」
美月はその言葉を聞きながら、川を見た。透明な水が、ゆっくりと流れていた。急がない。でも止まらない。そういう流れだった。
第二場 診療所
集落に入ると、古い診療所があった。
白壁に、小さな看板。「園子診療所」と書いてある。美月が「ちょっと寄っていいかい」と言った。
「腹が痛いの?」
「少し」
「本当に?」
「……気になっただけかもしれない」
辰夫が車を止めた。
引き戸を開けると、白衣を着た小さなお婆ちゃんがいた。七十代後半だろうか。背筋がしゃんと伸びていて、目が鋭かった。
「いらっしゃい。どうしました」
「旅の途中でさ、少し腹が」
「座って」
診察台に座ると、園子先生が手際よく診始めた。冷たい聴診器が背中に当たった。
「どこから来たの」
「いろんなとこから」
「何の仕事してるの」
「ストリッパーだよ」
園子先生が少し手を止めて、美月を見た。それから、目を細めた。
「そう。いい仕事ね」
美月が少し驚いた。
第三場 縁側での話
大した異常はなかった。疲れと夏の暑さだと言われた。
「お茶でも飲んでいきなさい」
縁側に麦茶が出てきた。氷が入っていて、グラスが汗をかいていた。美月は一口飲んで、診療所の古さを眺めた。柱に染み、畳の擦り切れ、年季の入った薬棚。どれも、長い時間を物語っていた。
「長いんだねえ、ここで」
「五十三年」
「すごいねえ」
「すごくないよ。ここしかなかっただけ」
園子先生が麦茶を飲んだ。
話を聞くうち、事情が見えてきた。患者が減り続けていること、後継者がいないこと、県から統廃合を打診されていること。
「それでも、離れないんかい」
「患者さんが待ってるから」
「でも、減ってるんだろ」
「減っても、いる。最後の一人になっても、ここにいる」
美月が麦茶を飲んだ。
「……強いねえ、先生」
園子先生が笑った。
「強くないよ。怖いよ、毎日」
美月が園子先生を見た。
「怖い?」
「自分が死んだら、この人たちはどうなるかって。毎晩考える。眠れない夜もある」
美月は黙った。
強い人間ほど、怖さを知っている。それを美月は知っていた。舞台に立つ前の怖さ、消えてしまうかもしれないという怖さ。でも怖いまま、立つ。それしかない。
縁側に風が吹いた。夏の風が、麦茶のグラスを揺らした。
第四場 辰夫と園子先生
気づくと、辰夫が診療所の庭で草むしりをしていた。
頼まれてもいないのに。黙って、黙々とやっていた。
園子先生が縁側から見ていた。
「あなたも、怖いものがあるの?」
辰夫が手を止めずに答えた。
「ある」
「何が怖い」
「……この人が、いなくなること」
園子先生が美月を見た。
美月は縁側で眠っていた。旅の疲れで、いつの間にかうとうとしていた。麦茶のグラスを手に持ったまま、小さく寝息を立てていた。
園子先生が小さく笑った。
「あなたたち、いい旅をしてるね」
辰夫は答えなかった。でも、草むしりの手が少し丁寧になった。
第五場 集落の夜
夜、集落の人たちが診療所に集まってきた。
月に一度の集まりらしい。美月と辰夫も混ざった。
お婆ちゃんたちが美月に興味津々だった。「どこから来たの」「何の仕事してるの」「おいくつ?」。矢継ぎ早に訊いてくる。
「ストリッパーだよ」と美月が言うと、お婆ちゃんたちが「まあ」と言って顔を見合わせた。それから笑った。怖がらない。嫌がらない。ただ、笑った。
美月が少し拍子抜けした。
園子先生が美月に耳打ちした。
「ここの人たちはね、仕事で人を判断しないのよ。生きてるかどうかで判断するから」
美月は集まりを見回した。お婆ちゃんたちが辰夫に話しかけていた。辰夫が困った顔をしながら、でも答えていた。珍しい光景だった。
第六場 美月が踊る
集まりが盛り上がってきた頃、お婆ちゃんの一人が三味線を取り出した。
音が鳴り始めた。
美月が立ち上がった。
踊り始めた。今夜はストリップじゃない。ただの踊りだ。音に合わせて、体が動く。足が動く。手が動く。
お婆ちゃんたちが手を叩いた。誰かが笑い声を上げた。
辰夫が縁側から見ていた。
園子先生が、静かに微笑んでいた。
美月が踊りながら、園子先生に手を差し伸べた。
「先生も踊りなよ」
「私は見てるわ」
「ダメだよ、踊らないと」
園子先生が立ち上がった。小さな体で、ゆっくりと踊った。上手くはなかった。でも、楽しそうだった。
集落の笑い声が、夏の夜に響いた。
四万十川が、遠くで流れていた。
第七場 翌朝の言葉
翌朝、出発の前に縁側で園子先生と並んで座った。
朝の四万十川が、霧の中に見えた。静かな朝だった。
「美月さん、夢はあるの」
「自分の小屋を持つことだよ」
「小屋?」
「ストリップ小屋。自分で建てて、自分で踊る」
園子先生が頷いた。
「いいね。私もここが自分の小屋みたいなもんだから」
二人が笑った。
しばらくして、園子先生が言った。
「美月さん」
「何?」
「あなた、いつか自分の小屋で踊れるよ」
「なんでそう思うんだい」
「まだ諦めてない目をしてるから」
美月は川を見た。透明な水が、霧の中をゆっくりと流れていた。
「……どんな目だい」
「諦めた人間の目は、濁るの。あなたの目は、まだ透いてる」
美月は何も言えなかった。言葉が出てこなかった。
第八場 出発の朝
ハイエースに荷物を積んでいると、園子先生が出てきた。
小さな包みを持っていた。
「これ、持っていきなさい」
中を開けると、置き薬が入っていた。頭痛薬、胃薬、絆創膏。旅に必要なものが揃っていた。
美月が笑った。
「先生らしいねえ」
ドアに手をかけて、振り返った。
「園子先生」
「何?」
「最後の一人になっても、ここにいてくれよ」
園子先生が目を細めて笑った。
「もちろんよ」
ハイエースが動き出した。集落の道を抜けて、四万十川沿いに出た。透明な水が、朝の光を受けてきらきらしていた。
「また、いい街だったねえ」
「そうだな」
美月は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「まだ諦めてない目、か」
辰夫は何も言わなかった。でも、少しだけ口の端が動いた。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、園子先生の言葉が胸の中でずっと光っていた。
いつか、自分の小屋で踊る日が来る。
まだわからない。でも、そういう目をしているなら、きっと来る。そう思ってもいい気がした。
(第八話 了)




