第七話「阿波の骨」
第一場 阿南の海岸線
四国の土を踏んだのは、昼過ぎだった。
フェリーを降りて、国道五十五号線に入った。左手に海が広がっていた。深い藍色だった。空との境目がはっきりしないくらい、深い青だった。
「きれいな海だねえ」
「阿南の海だ」
美月は窓を少し開けた。潮の匂いがした。夏の、濃い潮の匂いだった。
しばらく走ったところで、美月が前方を指差した。
「辰夫さん、あの子」
白い遍路装束の女が、路肩を歩いていた。二十歳そこそこだろうか。金剛杖を突きながら、一歩一歩、確かめるように歩いている。真夏の西日の中、覚束ない足取りだった。
辰夫が路肩に車を止めた。
「逆打ちだ」
「逆打ちって?」
「逆回りで四国を巡ること。普通じゃない理由がある時にやる」
美月は女を見た。歩いても歩いても、どこへ向かっているのかわからないような歩き方だった。
第二場 遥との出会い
美月が車を降りて、声をかけた。
「ちょっと、大丈夫かい」
女が振り返った。目が虚ろだった。肌が赤く日焼けしていて、唇が乾いていた。
「乗っていきな。どこまで行くの」
「……わからないです」
美月が辰夫を見た。辰夫が頷いた。
「とりあえず乗りな」
女はリュックを抱えたまま、後部座席に座った。リュックを膝に乗せて、両手でしっかり抱えていた。
走り始めてしばらくして、女が小さな声で言った。
「遥、といいます」
「美月。こっちは辰夫さん」
遥はまたリュックを抱えた。その抱え方が気になった。荷物の重さじゃなくて、別の何かを抱えているみたいに見えた。
第三場 遥の事情
海沿いの宿に泊まった。
夕飯の後、遥が少しずつ話し始めた。
兄が罪を犯した。刑務所に入った。刑務所の中で病気になって、死んだ。誰も引き取らなかった。遥だけが骨を受け取りに行った。
「兄さんは悪いことをした。でも、あたしにとっては兄さんだから」
美月は黙って聞いていた。
「どこに納めたいの」
「海が好きだったから……でも、罪人の骨を受け入れてくれる寺がなくて」
遥がリュックを見た。
「歩いても歩いても、どこに行けばいいかわからなくて。もう、一緒に沈んじゃえばいいかって、思うこともあって」
美月が遥の手を握った。
強く。でも何も言わなかった。
遥が少し驚いた顔をして、それから黙った。窓の外に海が見えた。夜の海は黒くて、静かだった。
第四場 辰夫が動く
翌朝、辰夫が一人で出かけた。
「どこ行くの」
「寺」
それだけ言って、出ていった。
美月は宿に残って、遥と話した。兄の話、子供の頃の話、兄が好きだったものの話。遥が少しずつ、兄のことを言葉にし始めた。
昼過ぎに辰夫が戻ってきた。
「崖の上の廃屋を、一晩貸してもらえることになった」
美月が辰夫を見た。
「どうやって」
「頼んだ」
それだけだった。でも美月には、辰夫が何をしたかがわかった。昔の自分を差し出して、頭を下げたのだ。辰夫がそういうことをする時、多くを語らない。
遥が「ありがとうございます」と言った。声が震えていた。
第五場 月の供養
夜、崖の上の廃屋に、三人で上がった。
辰夫が蝋燭を灯した。遥が骨壺と遺影を取り出して、窓の前に置いた。窓の外に海が見えた。月が出ていた。明るい月だった。
辰夫は入り口の近くに座って、目を閉じた。
美月が遥の隣に座った。しばらく二人で黙っていた。波の音だけが聞こえた。
美月が静かに立った。
音楽もなかった。声もなかった。
美月がゆっくりと服を脱ぎ始めた。
踊らなかった。パフォーマンスじゃなかった。ただ、静かに脱いだ。一枚、また一枚。蝋燭の灯りが、美月の影を壁に映した。
遥が息を飲んだ。
美月が遥の隣に戻った。裸のまま、骨壺の前で手を合わせた。
しばらくして、美月が言った。
「これがあたしの仕事だよ」
「……ストリッパー、ですか」
「そう。裸になることを、恥ずかしいと思ったことはない。これがあたしの生き方だから」
遥が骨壺を見た。
「兄さんも……自分の生き方があったのかな」
「あったと思うよ。うまくいかなかっただけで」
遥の目から涙がこぼれた。声は出なかった。ただ、涙だけが落ちた。
兄の死を悼む涙だった。ようやく、ちゃんと泣けた涙だった。
美月は裸のまま、遥が泣き終わるまで隣にいた。蝋燭の灯りが、二人を静かに照らしていた。
第六場 散骨
翌朝、阿南の海は青かった。
崖の上に三人で立った。
遥が骨壺を開けた。風が吹いていた。遥がゆっくりと、遺灰を海へ還した。灰が風に乗って、海に溶けていった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
波の音だけが聞こえた。
遥が海を見つめていた。それからゆっくりと振り返って、笑った。泣き顔のまま、笑った。
美月は何も言わなかった。ただ、頷いた。
第七場 出発
ハイエースの前で、遥が言った。
「これから、順打ちで歩こうと思います。今度は、兄さんを隣に連れて」
美月が頷いた。
「遥ちゃん」
「はい」
「死んだ人の分まで、生きてみなよ」
遥が頷いた。今度は泣かなかった。
白い遍路装束の背中が、朝の光の中を歩いていった。金剛杖の音が、だんだん遠くなっていった。
美月はその背中が見えなくなるまで、見送っていた。
第八場 峠道
ハイエースが四国の峠道を走った。
しばらく黙っていた美月が、ぽつりと言った。
「辰夫さん。あたしたち、いつか骨になるねえ」
「そうだな」
「あたしの骨、拾ってくれるかい」
辰夫が少し間を置いた。
「……拾ってやる。その代わり、俺の骨はその辺のステージにでも撒いといてくれ」
美月が小さく笑った。
「派手なとこに撒いてやるよ」
辰夫が黙った。でも、口の端が動いた。
窓の外に、四国の山が続いていた。緑が深くて、雲が低かった。
「また、いい話だったねえ」
今回は街じゃなくて、話と言った。
辰夫は小さく頷いた。それだけだった。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、遥の泣き顔の笑顔が、頭から離れなかった。
死んだ人の分まで、生きてみなよ。
自分に向かっても、そう言える日が来るだろうか。まだわからなかった。でも、考えてもいい気がした。
(第七話 了)




