第六話「薩摩の火」
第一場 桜島
窓の外に、桜島が現れた。
海の向こうに、どっしりと座っている。煙が細く上がっていて、灰が舞っていた。大きい。写真で見るより、ずっと大きかった。
「すごいねえ、桜島」
「毎日噴いてる」
「住んでる人は慣れてるのかねえ」
「慣れても、なくなりはしない」
美月は桜島を見ながら、その言葉を聞いていた。
慣れても、なくなりはしない。
熊本城の石垣を思い出した。崩れても、また積み直している。桜島も毎日噴いて、灰を降らせて、それでもそこにいる。この九州という土地には、そういう何かが染み込んでいる気がした。
ハイエースが鹿児島市内に入った。
第二場 焼酎蔵
鹿児島市内を走っていると、古い蔵が見えた。
白壁に、黒い格子。甘い麹の匂いが、窓から入ってきた。
「ちょっと寄っていいかい」
「構わない」
辰夫が車を止めた。美月が降りて、蔵の周りを歩いた。観光客向けの入り口とは別に、裏手に作業用の出入り口があった。
そこに、女がいた。
二十代後半だろうか。作業着姿で、重そうな芋の袋を担いでいた。額に汗が光っている。美月と目が合った。
「こんにちは。観光の方ですか」
「まあ、そんなもん。いい匂いがしたから寄ってみた」
「ありがとうございます」
女は袋を下ろして、手の甲で額の汗を拭いた。
「この蔵の人かい」
「長女です。結衣といいます」
美月はしばらく結衣を見た。
「大変そうだねえ」
「慣れてます」
慣れてます、という言葉が、少し早かった。用意していた言葉みたいに聞こえた。
第三場 結衣の焼酎
話を聞くうち、事情が少しずつ見えてきた。
「女が蔵に入ると酒が腐る、って今でも言われてて」
「あんた、それ信じてるの?」
「信じてないけど、逆らえない」
美月は蔵の裏手に積まれた芋を見た。
「試作してるって聞いたよ」
結衣が少し驚いた顔をした。
「誰から」
「蔵の外に、いい匂いがしてたから」
結衣がしばらく美月を見た。それから、「少し待っててください」と言って、蔵の奥に入った。
戻ってきた時、手に小さな瓶を持っていた。
「飲んでみますか。誰にも飲ませたことないけど」
美月は一口飲んだ。
芋の甘みと、土の香りと、どこか鋭い後味。力強くて、でも繊細だった。
「……旨いじゃないかい」
結衣が初めて笑った。
「誰にも飲ませたことなかった」
「なんで」
「怖くて」
「旨いものが怖いのかい」
結衣が黙った。
「誰かに旨いって言ってもらうのが怖いんだろ。認めてもらったら、次が怖くなるから」
結衣がまた黙った。今度は長かった。
「……そうかもしれない」
美月がもう一口飲んだ。
「でもこれ、飲ませないのはもったいないよ」
第四場 辰夫の一升瓶
翌日、辰夫が動いた。
美月には何も言わなかった。朝、「出てくる」とだけ言って、結衣の試作品を一本持って出かけた。
戻ってきたのは昼過ぎだった。
「どこ行ってたんだい」
「料亭」
「一人で?」
「ああ」
それだけだった。美月はそれ以上訊かなかった。
後で結衣から聞いた。
蔵を乗っ取ろうとしている親戚の男たちが、地元の有力者と料亭で会合を開いていた。そこに辰夫が一升瓶を持って現れた。無言でテーブルに置いて、「飲め」と言った。男たちが怪訝な顔をすると、「誰が造ったかは後で言う。まず飲め」と言った。
男たちが飲んだ。
「……旨いな」
「この蔵の娘が造った」
男たちが黙った。
辰夫が「酒の価値もわからん奴が、蔵を語るな」と言って、立った。振り返らなかった。
結衣がそこまで話して、少し黙った。
「辰夫さんって、怖い人ですね」
「そうだよ」と美月は言った。「でも、悪い人じゃないよ」
第五場 一夜限りの試飲会
夜、蔵の近くの空き倉庫に人が集まった。
美月と辰夫が声をかけた。地元の若い衆、古い慣習に疑問を持つ女たち、結衣の焼酎を一度飲んでみたいと言った人たち。
結衣の焼酎が振る舞われた。
一口飲んだ誰もが、目を見開いた。
美月が結衣の背中を軽く押した。
「今夜は、あんたが注いで回りな」
「私が?」
「造ったのはあんただろ」
結衣が焼酎を持って、一人一人に注いで回った。飲んだ人間が、結衣を見る目が変わっていった。「旨い」「誰が造ったんだ」「この蔵の娘さんか」。声が上がるたびに、結衣の背筋が少しずつ伸びていった。
美月はその様子を、倉庫の入り口から眺めていた。
第六場 月の光
試飲会が盛り上がっている間、美月は結衣の袖を引いた。
「ちょっと来なよ」
倉庫の裏手に出た。桜島が夜空に黒く浮かんでいた。月が出ていた。明るい月だった。
美月が結衣の前に立った。
「見てなよ」
音楽はなかった。BGMもなかった。月の光だけがあった。
美月が踊り始めた。
結衣が息を飲んだ。
昼間の美月とは、別の人間みたいだった。体が自由で、重力を忘れているみたいで、でも地面にしっかり立っていた。月の光の中で、影が揺れた。
しばらくして、美月が止まった。
乱れた息のまま、結衣をまっすぐ見た。
「私はね、ストリッパーなのよ」
結衣が黙っていた。
「脱いで踊る仕事。女だからって笑う人もいる。でもあたしは、これがあたしの仕事だと思ってる」
夜風が吹いた。
「あんたの焼酎と、同じだよ」
結衣の目が、潤んだ。
「……同じ、ですか」
「女だからって、蔵に入れないあんたと。女だからって、舞台に立てないと思われるあたしと。同じだよ」
美月が倉庫の中を指差した。
「さあ、戻りな。あんたの焼酎を飲んでる人たちが待ってるよ」
結衣が頷いた。目を拭いて、倉庫に戻っていった。
美月はしばらく月を見ていた。桜島が、夜空に黒く座っていた。
第七場 父親
翌朝、蔵の前に父親が立っていた。
六十がらみの、寡黙な男だった。昨夜の試飲会のことを聞いたらしい。
結衣が緊張した顔で立っていた。美月は少し離れたところで、桜島を眺めていた。
父親が結衣を見た。しばらく黙っていた。
「一本、飲んだ」
結衣が黙って待った。
「……悪くなかった」
父親はそれだけ言って、蔵に入った。
結衣の目から涙がこぼれた。声は出なかった。ただ、涙だけが落ちた。
美月は桜島を見ながら、心の中で思った。
これはあたしの出る幕じゃない。よかった。
第八場 出発の朝
ハイエースに荷物を積んでいると、結衣が来た。
手に一本の焼酎を持っていた。ラベルに、手書きで名前が書いてあった。結衣の名前だった。
「これ、持っていってください。私の名前で出す、最初の一本のつもりで造りました」
「旨そうだねえ」
「飲んだら、感想聞かせてください」
「次に来た時にね」
美月がドアに手をかけて、振り返った。
「結衣ちゃん」
「はい」
「女だからって、蔵に入るのを遠慮するんじゃないよ」
結衣が頷いた。今度は泣かなかった。
ハイエースが走り出した。鹿児島の街が遠ざかっていく。窓の外に、桜島が見えた。今日も灰を吐いていた。
「また、いい街だったねえ」
「そうだな」
美月は助手席で、焼酎の瓶を膝に置いた。桜島を眺めながら、小さく呟いた。
「慣れても、なくなりはしない、か」
辰夫は何も言わなかった。でも、少しだけ口の端が動いた。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、結衣の名前が書かれた焼酎の瓶が、膝の上で温かかった。
(第六話 了)




