第五話「熊本の水」
第一場 熊本城
熊本城が、夏の空に浮かんでいた。
青い空に、黒い屋根。威風堂々という言葉が似合う城だった。でも近づくと、石垣のあちこちに修復の跡が見えた。崩れた石を積み直している最中の場所もある。工事用の足場が、城の一部を覆っていた。
美月は立ち止まって、石垣を見上げた。
「崩れても、また積み直してるんだねえ」
「地震で崩れた。まだ直してる最中だ」
「……強い街だねえ」
辰夫は答えなかった。でも熊本城を見る目が、いつもと少し違った。何かを思っているような、思い出しているような目だった。美月は訊かなかった。
風が吹いた。夏の始まりの、少し湿った風だった。
第二場 夜の繁華街
夜、美月は一人で繁華街を歩いていた。
辰夫は宿で休んでいた。「足が痛い」と言った。珍しいことだった。美月は「ゆっくりしてなよ」と言って、一人で出た。
熊本の夜は賑やかだった。居酒屋の灯り、カラオケの音、笑い声。福岡とは少し違う、地に足のついた賑やかさだった。
路地に入った時だった。
「ねえ姉ちゃん、一人? 一緒に飲もうよ」
振り返ると、三人の若い男が立っていた。二十代前半。酒が入っているのか、目が据わっていた。
美月は無視して歩いた。
「無視すんなよ、感じ悪いな」
腕を掴まれた。
「離しなよ」
「まあそう言わずに。怖くないって」
逆に囲まれた。美月は舌打ちした。こういう手合いは、どこにでもいる。面倒くさい。
「離さないと、大声出すよ」
「出せばいいじゃん。誰も来ないって」
リーダーらしい男が、にやにや笑った。
第三場 辰夫が現れる
その時、路地の奥から足音がした。
ゆっくりとした足音だった。急いでいない。でも確実に、こちらへ向かってくる。
辰夫だった。
足が痛いと言っていたのに、いつの間にか来ていた。美月は後で訊こうと思った。
辰夫は三人の前に立った。
何も言わなかった。ただ、立った。
三人を順番に見た。目を合わせた。それだけだった。
リーダーの男が、一歩引いた。笑顔が消えていた。
「……な、なんだよ、じじい」
辰夫はまだ何も言わなかった。ただ立っていた。
リーダーがもう一歩引いた。
「……行こうぜ」
三人が路地を出ていった。走るでもなく、でも早足で。振り返らなかった。
美月は辰夫を見た。
「何もしてないじゃないかい」
「した」
「何を?」
「立った」
美月は黙った。
本物の怖さを持つ人間は、立つだけで場が変わる。それを美月は初めて、間近で見た気がした。
第四場 陽子の居酒屋
路地の騒ぎを見ていた女が、声をかけてきた。
五十がらみ。割烹着姿。目が細くて、笑うと目尻に深い皺が寄る。
「まあ、一杯飲んでいきなさいよ。びっくりしたでしょう」
断る理由がなかった。二人でついていくと、熊本城の近くに小さな居酒屋があった。
「陽子です」と女は言った。
「美月。こっちは辰夫さん」
馬刺しが出てきた。焼酎が出てきた。美月は馬刺しを一口食べて、目を細めた。旨かった。
「地震の時、大変でしたか」と美月は訊いた。
陽子が少し間を置いた。
「店が半壊してね。もうダメかと思った。主人も翌年に過労で逝っちゃって」
「それで、また立て直したんだねえ」
「熊本は何度でも立ち上がるから。私も火の国熊本の女だから」
美月が「強いねえ」と言った。
陽子が笑った。
「強くなんかないよ。ただ、立ち上がる以外にやることがなかっただけ」
その言葉が、美月の胸の中に静かに落ちた。
「美月さんはどんな仕事してるんですか」と陽子が訊いた。
「ストリッパー」
「あら」と陽子は言った。驚いた顔をして、それからにこりと笑った。「踊る仕事ね。いい仕事じゃないの」
「そう思ってくれる人、あんまりいないけどね」
「人前で体を張る仕事は、みんないい仕事よ。私だって、毎晩ここで体張ってるんだから」
美月は少し笑った。この人、好きだな、と思った。
第五場 辰夫の昔がにじむ
焼酎を二杯飲んだ頃、陽子が辰夫を見た。
「あなた、昔、怖い仕事してたでしょう」
辰夫の手が、杯の上で止まった。
何も言わなかった。否定もしなかった。ただ、目を伏せた。
「うちの亡くなった主人も、そういう人だったから。足を洗った後の目をしてる」
辰夫はまだ黙っていた。
「人に迷惑かけた、って顔をしてる。主人もずっとそういう顔をしてたから」
美月が辰夫を見た。辰夫は杯を見たまま、動かなかった。
陽子が静かに続けた。
「でも、悪い人じゃないのはわかる。この子を守りに来たんだから」
辰夫は何も言わなかった。杯を一口飲んだ。それだけだった。
美月は何も訊かなかった。訊けなかった。
辰夫が後悔しているということを、美月は知っていた。でも言葉で確認したことはなかった。今夜、陽子という他人の口から、それが初めて形になった気がした。
第六場 美月が助けようとする
翌日、美月が陽子の店に顔を出した。
「何か手伝えることないかい」
「いいよ、大丈夫。慣れてるから」
「でも一人じゃ大変だろ」
「大変だよ。でも、一人でやれることしかやらないって決めてるから」
美月が黙った。
陽子が手を動かしながら、美月を見た。
「あなた、人の世話ばかり焼いてるでしょう」
「……そうかい」
「自分のことも、ちゃんとしなさいよ」
美月は少し笑った。
「辰夫さんみたいなこと言うねえ」
「そういう人が周りにいるってことは、あなたにそういうところがあるってことよ」
陽子がにこりと笑って、また手を動かした。
美月は返す言葉が見つからなかった。
第七場 熊本城の夕暮れ
夕暮れ時、美月と辰夫が熊本城の前に立っていた。
修復中の石垣が、夕陽を受けて橙色に染まっていた。工事の足場も、この光の中では悪くなかった。崩れても、また積み直している。その途中の姿が、妙に美しかった。
「辰夫さん」
「何だ」
「足を洗ったのは、あたしのためかい」
長い沈黙だった。
「それだけじゃない」
「他に?」
また間があった。風が吹いた。
「……疲れた」
美月は黙った。
それ以上訊かなかった。訊かなくてもわかった。長い年月、怖い世界で生きてきた男が、ある日ただ疲れた。それだけのことが、どれだけ重いことか。
二人で夕暮れの熊本城を見ていた。
崩れても、また積み直している石垣を。
第八場 出発の朝
翌朝、陽子が店の前に立っていた。
「また来なさいよ。熊本は何度でも立ち上がるから、店もなくならないわよ」
「そうこなくっちゃ」
美月がハイエースのドアに手をかけた時、陽子が言った。
「美月さん」
「何?」
「女はね、強いだけが女じゃないのよ」
美月が振り返った。
「たまには、守られるのもいいものよ」
美月は少し黙った。辰夫の方をちらりと見た。辰夫は荷物を積みながら、こちらを見ていなかった。
「……考えとくよ」
陽子が笑った。目尻に皺が寄った。
ハイエースが動き出した。熊本城が遠ざかっていく。修復中の石垣が、朝の光の中に浮かんでいた。
「また、いい街だったねえ」
辰夫が答えた。
「そうだな」
いつもは頷くだけだった。今日は言葉が出た。美月はそれに気づいたが、何も言わなかった。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、辰夫が「疲れた」と言った一言と、陽子の「自分のことも、ちゃんとしなさいよ」という言葉が、胸の中に並んで残っていた。
いつか、そういう日が来るのだろうか。
まだわからなかった。でも、考えてもいい気がした。
(第五話 了)




