第四話「中洲の灯り」
第一場 関門橋
関門橋が窓の外に現れた時、美月は思わず身を乗り出した。
海峡の上を橋が渡っている。下には関門海峡の水が広がっていて、船が小さく見えた。本州から九州へ。その境目を、ハイエースがゆっくりと渡っていく。
「九州に来たねえ」
「福岡の小屋、久しぶりだな」
「辰夫さん、前に来たことあるの」
「昔、一度」
それ以上は言わなかった。美月も訊かなかった。辰夫の「昔」には、いろんなものが詰まっている。訊かない方がいいことも、ある。
関門海峡が遠ざかっていった。九州の空は、本州より少し青い気がした。気のせいかもしれないけど。
第二場 中洲の夜
夜の中洲は、別の顔をしていた。
那珂川沿いにネオンが並んでいる。若者たちが笑いながら歩いている。スマホを掲げて自撮りをする女の子たちが、画面の中の自分を確認しながら、また撮り直している。
「みんな画面の中に消えていくねえ」と美月は呟いた。
「そうだな」
辰夫はそれだけ言って、川を見た。美月も川を見た。那珂川の水面に、ネオンの灯りが揺れていた。
屋台が並ぶ路地に入った。豚骨の匂いが漂っている。「お多福」という小さな屋台に、二人で腰を下ろした。
第三場 莉央との出会い
屋台の隅に、女の子がいた。
二十歳そこそこだろうか。きれいに化粧をして、ブランドのバッグを持っている。でも目の前のラーメンには手をつけず、ひたすらスマホの画面をスクロールしていた。指が小さく震えていた。
美月はビールを頼んで、横目で女の子を見た。
しばらくして、女の子が突然スマホを差し出してきた。
「……これ、私に見える? 全然、私じゃないよね」
画面の中には、陶器のような肌と完璧な笑顔を持つ女の子がいた。加工された「理想の誰か」が、こちらを見て微笑んでいた。
「アンチコメントが怖くて、加工なしじゃ投稿できないの。本当の私は、もっとブスで、肌も荒れてて、何も持ってない。この画面が消えたら、私も消える気がして」
美月はスマホを見た。それから女の子を見た。
「ラーメン、食べなよ」
「え?」
「冷めるよ」
女の子が拍子抜けした顔をした。美月は自分のビールを一口飲んだ。
「あたし、美月。あんたは?」
「……莉央です」
「莉央ちゃん、ラーメン食べながら話しな」
第四場 美月が聞く
莉央はラーメンを食べ始めた。
二十一歳だと言った。フォロワーが数万人いるインフルエンサーだと言った。
「最初は楽しかった。でもだんだん、数字が気になり始めて。いいねが減ると怖くて。アンチのコメントが頭から離れなくて。今は毎日、投稿するのが怖い」
美月は黙って聞いていた。
「本当の私は、画面の中の私より全然ダメで。素顔も体型も、全部隠したい。画面の外の私には、価値がない気がして」
莉央がラーメンの箸を止めた。
「美月さんって、どんな仕事してるんですか」
「ストリッパー」
莉央が少し目を丸くした。
「……すごいですね」
「すごくないよ。ただ踊ってるだけさ」
「自分をさらす仕事じゃないですか。怖くないの?」
美月は少し間を置いた。
「怖いよ。毎回怖い」
「でも、やめないの?」
「やめたら、あたしが消えるから」
莉央が黙った。スープを一口飲んだ。
「……ラーメン、おいしい」
「そうだろ」
美月は笑った。莉央も少しだけ笑った。
第五場 小屋の楽屋
翌日、美月が小屋へ向かう時、莉央を連れていった。
「今日、見ていきな」
「ストリップ……見たことない」
「いいから来なよ」
福岡の小屋は、中洲の外れにある古いビルの二階だった。看板は小さくて、知らない人間には見つけられない場所だ。
楽屋で美月が支度をしていると、莉央が智恵子の刺繍の衣装を見つけた。
「これ、きれい。手作りですか」
「知り合いが作ってくれた。倉敷の人でね」
「刺繍、すごく細かい」
「二日かけて作ったんだってよ」
莉央が衣装をそっと触った。糸の凹凸を、指先で確かめるように。
美月は鏡の前に座って、深く息を吸った。舞台に立つ前は、いつもこうする。自分の中に火を入れる感じ。
第六場 舞台
照明が落ちた。音楽が流れた。
美月が舞台に出た。
藍色の衣装が照明を受けて浮かび上がる。波の刺繍が揺れる。美月が動くたびに、刺繍が生きる。
莉央は客席で、息を飲んだ。
加工もフィルターもない。完璧な体型でもない。でも美月は、舞台の上で圧倒的に存在していた。汗が光る。呼吸が聞こえる。動くたびに、生きていることが伝わってくる。
莉央は気づいたら、スマホを膝の上に置いていた。撮ろうとも思わなかった。ただ、見ていた。
ショーが終わって、楽屋のドアをノックした。
「……なんで、あんなに堂々としてられるの」
「さっき怖いって言っただろ」と美月は鏡に向かったまま言った。
「じゃあなんで」
「怖くても、ここにいるから」
莉央が黙った。
「……それだけ?」
「それだけ」
莉央は楽屋の椅子に座って、しばらく天井を見ていた。
第七場 フィルターのない朝
翌朝、那珂川のほとりに二人で座った。
朝の川は静かで、夜のネオンの気配が嘘みたいだった。辰夫は少し離れたベンチで、缶コーヒーを飲んでいた。
莉央がスマホを取り出した。カメラを起動して、自分に向けた。加工アプリは開かなかった。そのまま、シャッターを押した。
「投稿、しようと思う」
「加工なしで?」
「うん」
莉央が画面を見た。目の下に隈がある。肌も完璧じゃない。でも、昨日より顔つきが違った。
「アンチが来たら?」と美月が聞いた。
「来たら来たで、しょうがないよ」
美月の言葉が、そのまま返ってきた。莉央が少し笑った。
「美月さんって、励まし方が雑だね」
「そうかい」
「でも、なんか楽になった」
美月はビールを飲んだ。朝からビールを飲む美月を見て、莉央がまた笑った。
辰夫がベンチから声をかけた。
「投稿、したのか」
莉央がスマホを見せた。いいねがもうついていた。莉央の素顔に、知らない誰かが反応していた。
第八場 出発の朝
ハイエースに荷物を積んでいると、莉央が来ていた。
昨日と同じブランドのバッグ。でも今日は、化粧が薄かった。素の顔に近かった。
「また会えるかな」
「中洲来たら屋台にいな。あたしも寄るから」
「本当に?」
「嘘はつかないよ、あたし」
莉央が笑った。加工なしの、素の顔で笑った。
美月はドアに手をかけて、振り返った。
「莉央」
「何?」
「知らない誰かに、顔を決められるんじゃないよ」
莉央の目が少し潤んだ。でも泣かなかった。ただ、頷いた。
ハイエースが動き出した。中洲の路地を抜けて、那珂川沿いの景色が流れていく。バックミラーの中で、莉央がいつまでも手を振っていた。
「また、いい街だったねえ」
辰夫は小さく頷いた。それだけだった。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、莉央の加工なしの笑顔が頭から離れなかった。
怖くても、ここにいる。
それだけでいい。そういうことだと、美月は思っていた。
(第四話 了)




