第三話「倉敷の白壁」
第一場 倉敷川沿い
白壁の町並みが、春の光を受けて眩しかった。
倉敷川に沿って柳が並んでいる。観光客が川沿いを歩きながら写真を撮っている。どこかのカップルが川べりで笑っている。美月はその横をのんびりと歩きながら、白壁を眺めた。
「きれいな街だねえ」
「観光客が多い」
「辰夫さん、そこじゃないよ」
辰夫はパンフレットを眺めたまま、前を歩いている。美月は少し足を止めて、川面に映る白壁を見た。揺れている。水の上の白壁は、本物よりも柔らかく見えた。
観光客向けの土産物屋が並ぶ通りを抜けて、ふと路地に入った。
人の流れが急に減った。石畳が続いていて、古い建物がひっそりと並んでいる。その中に、小さな店があった。
ショーウィンドウに、布小物が飾ってある。
花の刺繍が施された巾着、小鳥が縫い取られたポーチ、細かい幾何学模様のがま口。どれも手が込んでいて、光の加減で刺繍の糸が微かに光った。
美月は立ち止まった。
ほっとけない性分というのは、人間に対してだけじゃないらしい。
第二場 手芸店
引き戸を開けると、布と糸の匂いがした。
棚に布小物が並んでいる。値札がついている。安い。美月は一つ手に取って、裏返した。縫い目が細かくて均一だった。
「いらっしゃいませ」
奥から女が出てきた。四十代後半だろうか。エプロン姿で、指先に糸が絡まっていた。作業の途中だったらしい。
「これ、全部手作りかい」
「そうです」
「すごいねえ、細かい。何時間かかるんだい」
「一つ三日くらいです」
美月は値札を見た。千二百円。
「……これ、安くないかい」
「高くしたら売れないので」
女は少し苦笑いした。笑い方が、どこか疲れていた。
美月はがま口と巾着と小さなポーチを三つ買った。辰夫へのお土産にしようと思った。渡したら怒られるかもしれないけど。
店を出る時、女の目が少し細くなっているのが見えた。疲れているのか、それとも別の何かなのか。美月には判断がつかなかった。
ただ、気になった。あたしには関係ない話だけど。
第三場 居酒屋で
夜、一人で居酒屋に入ると、カウンターの奥に見覚えのある背中があった。
エプロンは外していたが、間違いなく昼間の女だった。小さなグラスを両手で持って、静かに飲んでいる。
「あら、また会ったね」と美月は言った。
女が振り返った。少し驚いた顔をして、それからふっと力が抜けたような表情になった。
「どうぞ」と隣の席を示した。
美月は遠慮なく座った。瓶ビールを頼んで、グラスを合わせた。
「智恵子です」と女は言った。
「美月。よろしく」
話はゆっくりと進んだ。
二十年前に夫と二人で始めた店だということ。十年前に夫が他界して、一人で続けてきたこと。観光客向けの大型土産物店ができてから、客が減ったこと。東京で働く娘が「お母さん、もう店畳んで東京来なよ」と言い続けていること。
「娘さんが心配してるんだねえ」
「心配かけてるのはわかってます。でも……」
「でも?」
「あの店は、主人と二人で始めた店だから」
智恵子はグラスを見つめたまま、それ以上言わなかった。言わなくてもわかった。
「美月さんは、どんな仕事してるんですか」
美月は少し間を置いた。
「ストリッパー」
智恵子が目を丸くした。それから、ゆっくりと言った。
「……すごいですね」
「すごくないよ。ただ踊ってるだけさ」
「でも、自分で選んだ仕事でしょう」
その言葉が、胸の中に落ちた。
石が水に落ちるみたいに、静かに、でも確かに。
美月はビールを一口飲んだ。何か返そうとして、言葉が出てこなかった。自分で選んだ仕事。そう言われたのは、いつ以来だろう。
第四場 美月が揺さぶられる
翌朝、旅館の部屋で辰夫が緑茶を飲んでいた。
美月は昨夜の話をした。智恵子のこと、店のこと、娘のこと。辰夫は湯呑みを持ったまま、黙って聞いていた。
「あの人さ、あたしの仕事聞いて、自分で選んだ仕事でしょうって言ってくれてさ」
「……それがどうした」
「そう言われたこと、あんまりなかったから」
辰夫は湯呑みを置いた。しばらく間があった。
「お前は自分で選んでる」
美月は少し黙った。窓の外を見た。倉敷の空は青かった。春の、澄んだ青だった。
「辰夫さん、たまにいいこと言うねえ」
「たまにじゃない」
美月は笑った。辰夫は緑茶を飲んだ。それだけだった。
それだけで、十分だった。
第五場 美月の作戦
美月はスマホを取り出して、昨日買った布小物の写真を撮った。
白壁を背景に、刺繍のがま口を並べる。光の角度を変えて、何枚か撮る。一番いい一枚を選んで、文章を打った。
「倉敷の路地裏に、こんな店があった。三日かけて作った布小物が、この値段。買わない理由がない」
投稿した。
フォロワーは多くない。でも美月のSNSを見ている人間は、感度が高い層だ。すぐにいいねがついた。コメントがついた。「どこの店ですか」「行きたい」「通販はないんですか」
美月はそれを見て、智恵子の店に向かった。
店に入ると、智恵子が刺繍をしていた。
「あのさ」と美月は言った。「あたしのショーの衣装、作ってもらえないかな」
智恵子が手を止めた。
「ショーの、衣装?」
「そう。刺繍の入った衣装で踊りたいんだよ。あたし、日本中の小屋で踊るから、あんたの刺繍が日本中で見られる」
智恵子はしばらく黙っていた。
「ストリップの衣装、ですよね」
「そう」
「……私が作っていいんですか」
「あんたじゃないと嫌なんだよ」
智恵子は刺繍枠を置いて、美月をまっすぐ見た。
第六場 衣装作り
その夜、智恵子の店に灯りがついていた。
閉店後も、智恵子は針を動かし続けた。深い藍色の生地に、白い糸で波の模様を縫っていく。波が打ち寄せて、返して、また打ち寄せる。旅をする人間に似合う模様だと思った。
指先に豆ができても、手を止めなかった。
針を動かしながら、いろんなことを考えた。夫と二人でこの店を始めた日のこと。夫が他界して、一人で続けてきた十年のこと。売上が落ちていくのを見ながら、それでも針を持ち続けてきたこと。
娘は心配してくれている。それはわかっている。でも、この店はただの商売じゃない。夫との約束だ。二人で作ったものだ。
夜明け前、衣装が完成した。
智恵子は衣装を広げて、灯りに透かした。刺繍の糸が光を受けて、微かに輝いた。
しばらく見つめてから、携帯を取り出した。
娘はすぐに出た。
「お母さん、こんな時間にどうしたの」
「ちょっと聞いてほしくてさ」と智恵子は言った。「店、もう少し続けてみようと思って」
「……また言い出した」
「今度は違うよ。ちゃんと決めた」
娘が黙った。
「見に来てくれるかな。明日の夜」
「何があるの」
「来ればわかる」
電話を切って、智恵子は完成した衣装を丁寧に畳んだ。
第七場 一夜限りのショー
小さな宴会場に、人が集まった。
美月のSNSを見て来た人、地元の常連、智恵子の店を知っている人たち。客席の隅に、智恵子と娘が並んで座っていた。娘は東京から新幹線で来たらしかった。
美月は楽屋で、智恵子が作った衣装を身につけた。
藍色の生地が体に沿う。波の刺繍が、灯りを受けてほんのり光っている。美月は鏡を見ながら、深く息を吸った。
舞台に立つ前は、いつもこうする。自分の中に火を入れる感じ。
今夜はいつもより、少し違う火だった。
照明が落ちて、音楽が流れた。
美月が舞台に出た瞬間、場の空気が変わった。
藍色の衣装が照明を受けて浮かび上がる。波の刺繍が、美月の動きに合わせて揺れる。美月が腕を伸ばすたびに、波が打ち寄せる。体を回すたびに、波が返していく。
智恵子は客席で、息を飲んだ。
自分が縫った糸が、舞台の上で生きていた。指先に豆を作りながら縫った一針一針が、美月の体の動きと一緒に踊っていた。
娘が隣で小さく声を上げた。
「お母さん、あれ……」
「そう」と智恵子は言った。「あたしが作った」
娘が智恵子の手を握った。智恵子は握り返した。
舞台の上で美月が踊り続けた。波が揺れた。刺繍の糸が光った。
智恵子の目から、涙がこぼれた。
裸一貫でもう一度やれる。そう思った瞬間だった。
第八場 出発の朝
翌朝、ハイエースに荷物を積んでいると、店の前に二人が立っていた。
智恵子と、娘だった。娘は二十代半ばで、智恵子と目元がよく似ていた。
智恵子が言った。
「店、続けます。裸一貫でもう一度」
美月は笑った。
「そうこなくっちゃ」
娘が美月に向かって、深く頭を下げた。
「母のこと、ありがとうございました」
美月は手を振った。
「あんたのお母さんが決めたんだよ。あたしは踊っただけさ」
ハイエースのドアに手をかけて、振り返った。
「智恵子さん」
「はい」
「女だからって、安売りするんじゃないよ」
智恵子が笑った。今度は疲れた笑い方じゃなかった。娘も笑っていた。
ハイエースが動き出した。石畳の路地を抜けて、白壁の町並みが遠ざかっていく。バックミラーの中で、二人がいつまでも手を振っていた。
助手席で、美月は窓の外を見た。朝の倉敷川が、春の光を受けてきらきらしていた。
「また、いい街だったねえ」
辰夫は小さく頷いた。それだけだった。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は今回も少し減った。でも、舞台の上で波の刺繍が光った瞬間が、胸の中にずっと残っていた。そういう旅が、美月は好きだった。
(第三話 了)




