第二話「呉の男」
第一場 フェリーの上
フェリーの甲板は、冬の海風が刺さるように冷たかった。
美月は手すりに寄りかかって、灰色の海を眺めていた。波が白く割れて、すぐに消える。どこまでも続く水平線が、空と溶け合ってぼんやりしていた。
「辰夫さん、寒くない?」
「寒い」
「じゃあ中入ろうよ」
「お前が出たいって言ったんだろ」
「そうだっけ」
辰夫はベンチに腰を下ろして、缶コーヒーを両手で包んでいた。コートの襟を立てて、海を見ている。文句は言うが、出ていかない。それが辰夫だった。
美月は髪を風に取られながら、ぼんやりと海を見続けた。
「辰夫さんって、娘とかいないの」
唐突な問いだったが、辰夫は驚いた様子もなかった。
「いない」
「息子は」
「いない」
「そうか」
それだけだった。波の音だけが続いた。
美月はなんとなく、そのまま黙っていた。辰夫が何も訊き返さないのは、いつものことだ。それでも、こうして隣にいる。それで十分だと、美月は思っていた。
広島が、霞の向こうにゆっくりと近づいてきた。
第二場 呉の港町
呉の街に着いたのは昼過ぎだった。
港を降りると、潮の匂いがした。遠くに造船所のクレーンが見えた。巨大な鉄の腕が、冬の空に突き刺さっている。かつてはあのクレーンがいくつも動いていたのだろうと、美月は思った。今は静かだった。
商店街を歩いた。シャッターの下りた店が目立つ。それでも、残っている店の灯りが妙に温かく見えた。
「なんか、男の街だねえ」と美月は言った。
「軍港だったからな」
「辰夫さん、詳しいね」
「少し調べた」
また次の仕事まで数日空いた。美月には、こういう時間が案外好きだった。予定のない街を歩くのが。どこに何があるかわからないのが。
「腹へったね」
「あそこに定食屋がある」
辰夫が顎で示した先に、小さな店があった。手書きの看板に「定食 かつみ」とある。ガラス戸の向こうに、カウンターと小上がりが見えた。
美月は迷わず入った。
第三場 克己の定食屋
引き戸を開けると、出汁の匂いがした。
カウンターに四席、小上がりに一卓。昼時を過ぎていたせいか、客は誰もいなかった。厨房に、背中を向けた男がいた。
五十過ぎ。がっしりした肩。無駄のない動きで、鍋をかき混ぜている。
「いらっしゃい」
振り返らずに言った。愛想はなかったが、声は低くて落ち着いていた。
美月と辰夫はカウンターに並んで座った。壁の黒板に、メニューが書いてある。煮魚定食、カキフライ定食、肉じゃが定食。値段が安い。
「カキフライ定食、二つ」と美月は言った。
男は頷いて、また厨房に向かった。
料理が出てくるまで、美月は店の中を眺めた。カウンターの端に、小さな写真立てがあった。若い女性が笑っている。最近のものではなさそうだった。
カキフライが来た。
一口食べて、美月は目を細めた。
衣がさくっとしていて、中がとろりとしている。タルタルソースの加減が絶妙だった。
「おやじさん、これ旨いよ」
男は厨房から「そうか」とだけ言った。
「旨いのに、客が少ないねえ」
「……余計なお世話だ」
美月は笑った。嫌いじゃない返し方だった。
食べ終わって会計をしている時、常連らしい漁師の男が入ってきた。克己さん、と呼んでいた。美月は少し話しかけてみた。克己のことを、漁師は少しだけ話してくれた。
奥さんを三年前に亡くしたこと。娘がいるが、今は疎遠なこと。もうすぐ娘が結婚するらしいこと。
美月は店を出ながら、写真立ての女性のことを考えた。
ほっとけない、と思った。またか、とも思った。
第四場 娘の話
翌日も、美月は定食屋に来た。
克己はぶっきらぼうに「また来たのか」と言った。
「旨いんだもの、しょうがないだろ」
美月はカウンターに座って、今日は肉じゃが定食を頼んだ。辰夫は宿に残っていた。
肉じゃがが来た。一口食べると、懐かしい味がした。誰かの家で食べたような、そういう味だった。
「おやじさん、娘さんがいるって聞いたよ」
克己の手が止まった。
「……誰から聞いた」
「常連さん。結婚するんだって? よかったじゃないか」
「……」
「式、行かないの」
克己は答えなかった。布巾で台を拭き始めた。
「呼ばれてないんだろ」と美月は言った。「でも、行かないと後悔するよ」
「余計なお世話だと言った」
「そうだね。あたしには関係ない話だよ」
美月は肉じゃがを一口食べた。
「でもさ、この肉じゃが、娘さんが好きだったんじゃないの」
克己が動きを止めた。
返事はなかった。でも、美月にはわかった。図星だと。
第五場 辰夫と克己
夕方、美月が「ちょっと散歩してくる」と言って店を出た。
辰夫と克己が、カウンターを挟んで二人になった。
辰夫は黙って、湯呑みの茶を飲んでいた。克己も黙って、厨房の片付けをしていた。男同士の、重くない沈黙だった。
しばらくして、辰夫が口を開いた。
「言葉が出ないなら、飯を作れ。娘さんが好きだったもんを」
克己が手を止めた。
「……あいつが好きだったのは」と克己は言った。「煮穴子だ。母親が作ってた」
「作れるか」
「……作れる」
「じゃあ作れ」
それだけだった。辰夫はまた茶を飲んだ。克己はしばらく黙ってから、また片付けを始めた。
その夜、美月が戻ると、辰夫は何も言わなかった。美月も訊かなかった。ただ、辰夫の顔を見て、「何かやったね」とだけ言った。辰夫は答えなかった。
第六場 美月の作戦
翌朝、美月は常連の漁師から沙希の連絡先を聞き出した。
「あたしには関係ない話だけどさ」と言いながら、電話した。
呼び出し音が三回鳴って、女の声が出た。
「はい」
「沙希さん? あたし、美月って言うんだけど。お父さんの店に来てる旅の者でさ」
「……父の知り合いですか」
「知り合いってほどじゃないけど、まあそんなもん。ちょっと聞いてほしいんだけどいい?」
沙希は黙っていた。切らなかった。
「お父さんさ、毎日あんたの好きなもの作ってるよ。肉じゃがとか、カキフライとか」
「……それが何ですか」
「言葉が出ない人なんだよ、あの人。不器用でさ。でも、料理には出るんだよ、気持ちが」
沈黙が続いた。
「結婚するんだって? おめでとう」
「……なんで見ず知らずの人に」
「あたしもよくわかんないんだけどね」と美月は言った。「ほっとけない性分でさ、困ってんだよ、あたしも」
沙希が小さく笑った気がした。
「一度だけ、来てみな。それだけでいいから」
電話を切って、美月は空を見上げた。冬の呉の空は、青くて高かった。
第七場 再会
その日の夕方、定食屋のドアが開いた。
コートを着た若い女性が、入り口に立っていた。
克己が顔を上げた。固まった。
「……沙希」
沙希は黙って、カウンターに座った。メニューを見るふりをして、俯いていた。
美月はカウンターの端で、湯呑みを両手で持ったまま、息を殺していた。辰夫は小上がりで新聞を読んでいた。読んでいるふりをしていた。
厨房で、克己が動き始めた。
包丁の音がした。出汁の匂いがした。しばらくして、穴子の甘い香りが漂ってきた。
沙希が顔を上げた。
「……これ」
「お前が好きだったやつだ」
克己は皿を置いて、また厨房に引っ込んだ。それだけだった。
沙希は箸を取って、一口食べた。
しばらく、黙っていた。
「お母さんの味だ」と沙希は言った。声が少し震えていた。「ちゃんと、覚えてたんだね」
克己は厨房から返事をしなかった。でも、鍋をかき混ぜる音が止まった。
美月は静かに立ち上がって、辰夫に目で合図した。二人で、そっと店を出た。
冬の夜風が、頬に当たった。
「よかったねえ」と美月は言った。
辰夫は頷いた。それだけだった。
第八場 出発の朝
翌朝、ハイエースに荷物を積んでいると、克己が店の前に立っていた。
エプロン姿のまま、手に紙袋を持っていた。
「これ、持っていけ」
中を見ると、弁当が二つ入っていた。煮穴子が入っているのが、匂いでわかった。
「おやじさん」と美月は言った。「沙希さん、式に呼ぶんだよ」
克己はぶっきらぼうに「わかってる」と言った。
「わかってりゃいいよ」
美月はドアを開けながら、振り返った。
「男だからって、不器用でいいと思うなよ」
克己は何も言わなかった。でも、少しだけ頭を下げた。それが克己なりの返事だと、美月にはわかった。
ハイエースが動き出した。港の方へ下りていく。バックミラーの中で、克己がエプロン姿のまま立っていた。
しばらくして、美月は弁当を開けた。煮穴子の甘い匂いが、車の中に広がった。
「辰夫さん、これ絶対うまいよ」
「走ってる間は食うな」
「一口だけ」
「食うな」
美月はつまみ食いした。
旨かった。じんわりと、胸の奥まで染みる味だった。
「また、いい街だったねえ」
辰夫は小さく頷いた。それだけだった。
ハイエースは次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は、今回も少し減った。でも、まあいい。そういう性分なのだから。
(第二話 了)




