第一話「鞆の浦の女」
第一場 ハイエース
古いハイエースは、山陽道をゆっくりと西へ走っていた。
助手席の美月は、シートに頭を預けたまま、流れていく景色を眺めていた。眠いわけじゃない。ただ、こういう時間が好きだった。どこかへ向かっていて、まだ着いていない。その宙ぶらりんな感じが。
「辰夫さん、腹へった」
「パーキング、あと十キロ」
「遠いよ」
「我慢しろ」
会話はそれで終わった。辰夫はハンドルを握ったまま、前だけを見ている。五十がらみの、無口な男だ。昔は怖い世界にいた。今はこうして、古いハイエースで美月を全国に運んでいる。なぜそうなったかは、美月が一番よく知っている。
美月、三十二歳。職業、ストリッパー。
昔は名のある小屋で踊っていた。雑誌に載ったこともある。でも時代が変わった。ストリップ小屋は次々に閉まって、今は地方の小さな小屋を渡り歩く生活だ。悲しいかと言われたら、そうでもない。むしろこの旅が、美月には合っていた。
夢はある。いつか自分の小屋を持つこと。
お金は、なかなか貯まらないけれど。
「今回のキャンセル、向こうの都合?」
「ああ。小屋の事情らしい」
「次まで何日ある」
「四日」
「じゃあのんびりできるね」
辰夫は返事をしなかった。それが「そうだな」という意味だと、美月にはわかっていた。
車窓を流れる瀬戸内の海が、夕方の光を受けて橙色に光っていた。美月はぼんやりとそれを見ながら、思った。この仕事を続けていると、日本の風景をよく覚える。旅館の廊下の冷たさとか、知らない町の夜の匂いとか。そういうものが、身体の中に積み重なっていく。悪くない人生だと、今は思っている。
第二場 温泉街の夜
鞆の浦の近く、山と海に挟まれた小さな温泉街に着いたのは夕方だった。
かつては賑わっていたのだろう。旅館が何軒か並んでいるが、シャッターの下りた土産物屋が目立つ。駐車場には車がまばらで、どこか申し訳なさそうに街灯だけが灯っていた。
「さびれてるねえ」と美月は言った。
「温泉はいい湯らしい」
「辰夫さん、よく知ってるね」
「調べた」
それだけだった。辰夫は宿の手配も、道順も、いつも黙ってやっている。美月が気づいた時には、全部終わっている。
旅館に荷物を置いてから、美月は一人で外に出た。夕飯を食べがてら、街を見てみたかった。辰夫は「先に風呂に入る」と言って部屋に残った。
坂道を下ると、小さな居酒屋があった。暖簾が出ていて、中から魚の焼ける匂いがした。美月は迷わず入った。
カウンターに五席、小上がりに二卓。客は美月だけだった。
いや、一人いた。
カウンターの一番奥に、女が座っていた。三十前後に見える。肩を丸めて、小さなグラスを両手で包むように持っている。眉間に深い皺が寄っていて、何かをじっと堪えているような顔だった。
美月は端の席に座って、瓶ビールと刺身を頼んだ。
女を見るつもりはなかった。ただ、気になった。ほっとけない性分というのは、生まれつきだと思っている。自分でも損だとわかっている。でも、気になるものは気になる。
第三場 彩花の話
二杯目のビールを頼んだ頃、女がため息をついた。
小さなため息だったが、店が静かだったせいでよく聞こえた。美月はグラスを置いて、女の方を見た。
「ちょいと、大丈夫かい」
女は顔を上げた。目が赤かった。泣いていたのか、飲んでいたのか、たぶん両方だろうと美月は思った。
「……すみません、みっともないところを」
「みっともなくなんかないよ。ここで飲んでるんだもの」
女は少し目を細めた。笑ったのか、呆れたのか。
「隣、いいかい」
美月が移ると、女は「彩花です」と名乗った。二十六歳。この街で旅館を継いだばかりだと言った。
話を聞くうち、だんだんと事情が見えてきた。
コロナ禍で旅館の売上は激減した。借金だけが残った。母親が倒れて、治療費がかかる。借金取りは待ってくれない。母親は「もう店を畳んで施設に入る」と言い始めている。
「お母さんは、ほんとにそれでいいと思ってるのかねえ」と美月は言った。
「……わからないです。疲れちゃってるんだと思う。私のせいで」
「あんたのせいじゃないだろうよ」
「でも、私が継ぐって言わなければ」
彩花はグラスを見つめたまま、黙った。
しばらくして、ぽつりと言った。
「東京に、幼馴染がいるんです。悠斗って言って、ずっと仲良くしてたんですけど……旅館が苦しくなってから、連絡できなくて。心配かけたくなくて」
「好きなんだろ、その人のこと」
彩花は少し間を置いてから、「さあ」と言った。でもその「さあ」は、答えを知っている人間の「さあ」だった。
美月はビールを一口飲んで、夜の街を眺めた。
ほっとけない、と思った。やっぱり。
別にあたしには関係ない話だ。四日したら、どうせこの街を出ていく。それはわかってる。
わかってるけど。
美月は自分のことを、特別に情が深い人間だとは思っていない。ただ、困っている人間の顔というのが、見ていられない。特に若い女の子が一人で抱え込んでいるのは。それだけのことだ。余計なお世話かもしれないが、知らんふりは自分には無理だった。
第四場 辰夫への相談
翌朝、旅館の部屋で辰夫が緑茶を飲んでいた。
美月は昨夜の話をした。彩花のこと、旅館のこと、借金のこと。辰夫は湯呑みを持ったまま、黙って聞いていた。
話し終わると、少し間があった。
「やるのか」
「やるよ」
「何日ある」
「三日」
「わかった」
それだけだった。辰夫は湯呑みを置いて、携帯を取り出した。美月は窓の外を見た。朝の光が、山の稜線を橙色に染めていた。
辰夫がこういう時に多くを言わないのは、昔からだ。美月がどん底だった頃も、そうだった。長い説教も、優しい言葉も、何もなかった。ただ黙って、隣にいた。それが辰夫という人間だった。
「辰夫さん」
「何だ」
「ありがとね」
辰夫は答えなかった。湯呑みを口に運んだだけだった。それでよかった。
第五場 準備
美月はスマホで告知を出した。
「一夜限り。山陽の小さな温泉街で、特別なショーをします。詳細は旅館まで」
フォロワーは多くない。でも、美月のショーを知っている人間は、全国に散らばっている。地元の常連、旅好きの人間、口コミで広がる層。それで十分だった。
辰夫は午前中から出かけた。どこへ行くかは言わなかった。美月も訊かなかった。
昼過ぎに戻った辰夫は、「一週間、待ってもらえることになった」とだけ言った。
「どうやって」
「頭を下げた」
「辰夫さんが?」
「俺が頭を下げると、向こうも下げる。昔の顔がある」
美月は少し笑った。「それ、昔の顔って言うのかねえ」
辰夫は答えなかった。でも、口の端がわずかに動いた。
その日の午後、美月は彩花の旅館を訪ねた。「手伝わせてほしい」と言うと、彩花は「でも、何も……」と言いかけた。
「あたしに任せな。一晩だけでいい」
彩花の顔に、戸惑いと、かすかな期待が混ざった。美月はそれを見て、よし、と思った。
こういう顔をする人間は、まだ諦めていない。
第六場 一夜のショー
宴会場に、人が集まった。
地元の漁師、旅館の常連客、SNSを見て遠くから来た若い女性たち。小さな宴会場が、気づけばいっぱいになっていた。彩花は入り口で呆然と立っていた。
美月は楽屋代わりにした小部屋で、衣装をつけた。鏡を見ながら、深く息を吸った。
舞台に立つ前は、いつもこうする。自分の中に火を入れる感じ。
照明が落ちて、音楽が流れた。
美月が舞台に出た瞬間、場の空気が変わった。
これは脱ぐショーじゃない。美月がいつも思っていることだ。これは舞だ。生きている身体が、生きていることを伝える舞だ。疲れた人間の前で、疲れていない身体を見せる。それだけで、何かが変わることがある。
三十二年間この身体と生きてきた。傷もあるし、誇りもある。舞台の上では、それが全部、光になる気がした。
漁師の男が、目を細めた。若い女性が、いつの間にか涙を拭いていた。
美月は舞いながら、客席の彩花を見つけた。
舞台の端まで来て、手を差し伸べた。
彩花は首を振った。美月はもう一度、手を差し伸べた。
彩花が立ち上がった。
舞台に上がった彩花の手を、美月はしっかり握った。客席に向かって言った。
「この娘が守りたいものを、あたしも一緒に守る」
しばらく、静かだった。
最初に立ち上がったのは、前列にいた白髪の漁師だった。六十は過ぎているだろう。ゆっくりと立ち上がって、彩花を見た。
「うちのおやじが世話になったんじゃ、あの旅館に。若い頃に」
その声に、隣の男が続いた。「うちもじゃ。婆さんの葬式の時、女将さんが料理手伝うてくれた」
「うちは……去年、子供が熱出した時に」と、若い母親が言った。「女将さんが薬持ってきてくれて」
声が、次々に上がった。美月は舞台の上から、それを聞いていた。
この街の人たちは、忘れていなかった。ただ、言う機会がなかっただけだ。
漁師が財布を取り出した。「微々たるもんじゃけど」と言いながら、舞台の前に置いた。それを見た隣の男も立ち上がった。気づけば、客席のあちこちで人が動いていた。
彩花は舞台の上で、唇を噛んでいた。泣くまいとしているのが、美月にはわかった。
「泣いていいんだよ」と美月は小声で言った。「ここにいる人たちは、みんな味方だから」
彩花の目から、涙がこぼれた。
拍手が起きた。投げ銭が飛んだ。宴会場が、熱気に包まれた。
第七場 悠斗の登場
ショーが終わって、宴会場が少しずつ静まっていく頃だった。
入り口のドアが開いた。
スーツを着た青年が、息を切らして立っていた。二十八、九くらい。都会の匂いがした。目が、真っ直ぐ彩花を探していた。
「彩花」
彩花が振り返った。
その瞬間の彩花の顔を、美月はちゃんと見た。驚きと、安堵と、長い間しまっておいた何かが、一度に溢れ出たような顔だった。
「悠斗……なんで」
「SNS見た。すぐわかったよ、この旅館だって」
美月は二人を見て、静かに舞台の端へ引いた。
彩花が昨夜、居酒屋でこぼしていた言葉を思い出した。「心配かけたくなくて、連絡できなかった」と言っていた。連絡しなかったのに、来た。それだけで十分だと美月は思った。
これはあたしの出る幕じゃない。
そう思いながら、少しだけ胸が温かかった。こういう瞬間を見るのが、美月はたぶん好きだった。自分では気づいていないけれど。
第八場 出発の朝
翌朝、ハイエースに荷物を積んだ。
旅館の前に、彩花と悠斗、それから昨夜来ていた顔なじみたちが集まっていた。近所のおばちゃんまでいた。どこから聞きつけたのか。
彩花が頭を下げた。「本当にありがとうございました。美月さんがいなかったら」
「またそういうこと言う」と美月は言った。「立ち上がったのはあんただろうよ。あたしゃ、ちょいと火をつけただけだよ」
彩花は泣きそうな顔で笑った。悠斗がその隣で、小さく頭を下げた。
美月はドアに手をかけたまま、振り返った。
「女だからって、舐めるんじゃないよ。次来るときは満室にして待ってな」
ハイエースが動き出した。坂道を上っていく。バックミラーの中で、彩花がいつまでも手を振っていた。
助手席に落ち着いてから、美月は窓の外を見た。朝の海が、光を受けてきらきらしていた。
「また、いい街だったねえ」
辰夫は小さく頷いた。それだけだった。
ハイエースは山陽道へ入り、次の知らない土地へと走っていった。美月の夢貯金は、今回も少し減った。でも、まあいい。そういう性分なのだから。
(第一話 了)




