5.語られることのない
セオドアは無表情で結婚届を手に取ると、フェリシアへと声をかけた。
「一応聞いておくんだけど、今ここで結婚するつもりはある?」
「あるわけなくないですか?」
「だよね」
ため息を吐くと、結婚届を蒼い炎が包んでいく。セオドアが無関心に手を離すと、結婚届は跡形もなく燃え尽きていた。
「……蒼い炎」
「ああ、これ? フェリシア嬢も練習すればできると思うよ」
「それは……難しいものがあるかと……」
セオドアが軽く手を振るだけで蒼い炎球が浮かぶ。何でもないようにやっているが、本来は途方もない高等技術のはずだ。フェリシアにはできるはずもない。
蒼い炎は炎系統の魔法の最上級に位置する。高位の魔法士が詠唱を重ねて扱う魔法を無詠唱で使っているセオドアはやはり、かねてよりの天才という評判に見合う実力があるのだろう。それを結婚届を燃やすのに使うのはいかがなものかと思うが。
「本当にごめんね、うちのエレノアが。本来、王族の結婚って特別な書類を使うから一般的な書類じゃ受理されないんだけど、ギリギリ使えるラインの書類持ってきてたし」
椅子を引いて、フェリシアに座るよう促しながらセオドアは深いため息をついた。
頭の良い問題児ほど疲れるものはないだろう。内心で同情しながらフェリシアが席に着くと、セオドアも向かい合うように座った。
「……少し意外ですね」
セオドアの疲れた瞳を見つめながら、フェリシアはぽつりと呟いた。
「何が?」
「いえ、殿下のことなので、エレノア様が用意した結婚届へと署名を求められるかと思いましたから」
「君が自分の意思で書いてくれないと意味ないからね」
フェリシアの正直な言葉に、セオドアは苦笑して答えた。昨日今日と散々暴走していた人物とは思えないほどあっさりしている。
どうやら、この人には一応止まるべきところで止まるだけの理性はあるらしい。その直前まで全力疾走してはいるが。
この人が理性的であるうちに本題へと入ろうと、フェリシアは口を開いた。
「……では、そろそろ結婚の理由をお話いただけますか?」
「もちろんだよ」
レンが用意していった紅茶からはまだ白い煙が立ち上っている。部屋は静まり返り、先ほどまでの騒ぎが嘘のようだった。
「フェリシア嬢と俺は初対面だ。それは正しい。でもね、俺は『君』という存在をよく知っている」
「殿下が一方的に私のことを知っているということですか?」
「そうだとも言えるし、違うとも言える。見方次第だね」
フェリシアは首を傾げながらも疑問を重ねる。
「見方次第では一方的に知っている、というわけではないと。つまり私も殿下を知っている、ということですか?」
「いいや。さっきも言ったように、フェリシア嬢と俺は初対面だ。フェリシア嬢は『俺』のことを知らないし、俺も『フェリシア』嬢のことは知らないよ」
「……最初の言葉と矛盾しているように思えるのですが。それでは私のことを知っていると言えないのでは?」
「そうだとも言えるし、違うとも言える。見方次第だからね」
また同じ言葉だ。セオドアの瞳には迷いが浮かんでおり、その言葉はまるで煙に巻くように迂遠で分かりにくい。
結婚については迷いなく突き進んでいたくせに、こういうところは難しいらしい。
「すみませんが、まったく話が見えてきません」
「だよね。何を話せばいいかな……」
はるか遠くを見つめるような瞳。何かを懐かしむようなその色は、馬車の中でレンの中によぎったものとよく似ている。
「……昔。心から愛していた人がいたんだ。彼女こそが俺の人生のすべてで、これから先もそれは変わらないと思う」
静かに語られ始めた言葉は穏やかで、だが隠しきれない激情が滲んでいる。
「恋人だったのですか?」
「うん。愛し合っていたよ」
過去形だ。セオドアの目は伏せられている。
これはきっと良い終わり方はできなかったのだろう。だが、聞かなければ、なにも始まらない。
深呼吸をして、フェリシアは口を開く。
「……その方は、今は?」
「もういない」
「……申し訳ありません」
「謝らなくていいよ」
穏やかな声色は変わらない。だが、ずっと浮かべられていた微笑みが、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
そして気付いた。馬車の中でレンが見せた痛みは、このことを知っていたからなのだろうか。
「レン様もその方をご存じだったんですか?」
「ううん。直接会ったことはないよ。エレノアはあるけどね。ただ、俺と彼女の関係は知ってるし、彼女がいなくなって荒れてた頃、俺を連れ戻そうと手を尽くしてくれたんだ」
かつて荒れていたというセオドア。今となっては完璧な評判しか聞かないが、そうではなかった頃もあったということだろうか。
そして三人は同じ秘密を共有している。
フェリシアの中で、これまで意味の分からなかった言葉が一つにまとまり始めた。
エレノアの言った「感動の再会」。
レンの言った「会えて浮かれている」。
そして三人全員が口にする「フェリシアだから」。
そこまで考えて、フェリシアの胸の内にすっと冷たいものが落ちた。
ああ、そうか。私はきっと、彼女の。
「……殿下」
「うん?」
「その方は、私に似ていたのですか?」
セオドアは沈黙した。
それだけでフェリシアにとっては十分だった。
冷め始めた紅茶へと視線を落とす。
「なるほど。私は代わりなんですね」
「フェリシア嬢」
「私とその方が似ているから、代わりに私と結婚したいのでしょう?」
「違う」
それまでの穏やかさが消えた、早く、力強い否定。
フェリシアが思わず顔を上げると、セオドアは真剣な表情をしていた。
「君は代わりじゃないし、誰かに似ているから君を選んだんじゃない」
「では、なぜですか?」
「それは——」
そこでセオドアは言葉を切った。何かを言おうとして、だが直前で飲み込んだ。
「……フェリシア嬢だから」
「またそれですか」
「……ごめん。これ以上は上手く言えない」
フェリシアは眉をひそめた。
だがセオドアは困ったように笑うだけだ。
「でも、俺は君自身を愛してる。それだけは信じてほしい」
「信じろと言われましても……」
「そうだよね」
素直に認めて、セオドアはフェリシアをまっすぐ見つめる。
「だから、俺のことを知ってほしいんだ」
セオドアは目元を細めて笑う。
「そして最終的には結婚してほしい」
「そこは変わらないんですね」
「俺の行動原理だから」
「それはどうかと思います」
にこにこと話すセオドアはやはりおかしい。
だが、昨日のように一方的に結婚を迫ってくるわけではない。
それでも彼はフェリシアの理解が及ばない何かを抱えていて、それを隠している。信じてもらえないとでも思っているのか、話せない理由があるのか、フェリシアには何も分からない。だから。
「では結婚等関係なく、まずは殿下自身のことを教えてください」
対話を重ねてセオドアのことを知っていくことこそが、彼の抱えるものへと繋がっていくと信じて。
セオドアの目が僅かに開かれる。そこには楽しげな光が宿っていた。
「いいの? 何でもいいよ。何がいい? 趣味? 剣術? 魔法? 政治? それとも——」
「ちょっと落ち着いてもらっていいですか?」
「はい」
止まらないセオドアを試しにピシャリと注意してみると、気分を害した様子はなく、それどころか注意されたことすら嬉しいとでもいうようにわくわくと椅子の上で黙ってフェリシアの言葉を待っている。
レンとのやり取りを見て思っていたが、この王太子はやはりずいぶんと気安い人らしい。公の場でないのなら不敬など気にせず発言していい気がしてきた。
「ではまずレン様とのご関係について教えてください。いつ頃から友人なのか、とか」
セオドアが笑顔のまま固まった。
「……蓮? 俺じゃなくて?」
「殿下を知るために必要なことです」
「……本当に? 蓮に気があるなんて言わないよね」
「言いませんよ。先ほど楽しそうに会話していらっしゃったので、気になるんです」
セオドアは若干疑うような視線をフェリシアへと向けてくる。不満そうだ。
「……ずっと昔から」
「具体的には」
「……」
「それも秘密なんですか。ではエレノア様は?」
「……ずっと昔から」
不満げだった顔が若干気まずそうな顔に変わってきた。
どれだけ曖昧にする気なんだ。フェリシアがジト目を向けると、セオドアは楽しそうに笑った。
「ごめんね?」
「笑って謝るのはどうかと思います」
「可愛くって」
「そういうところです」
先ほどまでの真剣な雰囲気はどこにいったのか。フェリシアはため息を吐いて窓の外へと視線を向ける。
だが不思議と、昨日ほどは疲れを感じていない。
ほんの少し、ほんの少しだけだが、この秘密主義で頭のおかしい王太子のことを知ってみてもいいかもしれない。そう思い始めている自分がいた。




