17.それは明確な
「笑わないでよ」
「すみません。でも、そろそろ慣れてくださいよ」
「少なくとも今日中は無理だと思う」
「では今日は控えますね、セオドア」
「フェリシア嬢」
抗議するように名前を呼ばれた。
しかし繋がれた手は離れない。むしろ先ほどより少しだけ力が込められた気がして、フェリシアはまた笑いそうになるのを堪える。
自分の名前を呼ばれただけでここまで喜べる人間は珍しい。
つい数日前まで、セオドアの一挙一動に振り回されていたのはフェリシアの方だったはずなのに、いつの間にか逆にからかえるようになっていた。
「それより、次は建物でしたよね?」
「うん。今日は市場の外れが動くよ」
ようやく立ち直ったセオドアに連れられ、人の流れに沿って歩いていく。人混みを抜けても、手は繋いだままだった。
市場を抜けると、建物の数が少しずつ減り、その代わりに倉庫らしき大きな建物が増えてくる。
その中でもひときわ目立つ、三階建てほどの建物の前でセオドアが立ち止まった。
「これが動く建物ですか?」
「そう。見てて」
セオドアが指さした先では、建物の土台部分にいくつもの術式が刻まれていた。
やがて低い駆動音のようなものが響き始める。石造りの建物全体がゆっくりと浮き上がり、地面に敷かれた溝に沿って横へと移動し始めた。事故防止のためか、移動範囲には立ち入りを禁止する結界が展開されている。
「……本当に動いてる」
分かってはいた。馬車から一度見たこともある。
それでも、間近で見る光景はあまりにも異様だった。
「王都は昔から建物が密集してるからね。道路を広げようとしても、一から壊して建て直すのは時間も金もかかるし、住民からの反発もある。それなら必要な時だけ動かせるようにした方が早いって話になったんだ」
「すごい発想ですね……」
「昔そういう物語を聞いたことがあってね。それを再現できないかと思って。市場に大きな荷物を運び込む日とか、祭りで人通りが増える時とかだけ道幅を広げるんだ」
建物は数メートルほど移動したところで止まり、先ほどまでより広くなった道を大型の荷車が通り抜けていった。
フェリシアは素直に感嘆する。
ただ建物を動かすだけではない。必要な場面を想定し都市全体の流れを調整するために使われている。
「でも、地方には向かなさそうですね。費用がかかりそうです」
「そうだね。王都以外じゃ普通に道を広げた方が安い場所がほとんどだよ」
水路のときと同じだ。
便利だから何でも使えばいいというわけではない。必要な場所に、必要なだけ。費用も維持も考える。
当たり前のようでいて、実際に判断するとなると簡単ではない。
「……今日だけでかなり勉強になりました」
フェリシアが建物を見上げたまま呟くと、隣から返事が来ない。
顔を向けると、セオドアがじっとこちらを見ていた。
「どうしました?」
「いや。楽しんでもらえてよかったなって」
セオドアは穏やかに笑う。
「最初は俺が街を案内したかっただけなんだけど、フェリシア嬢がこんなに興味を持ってくれるとは思ってなかった」
「領地経営を学んでいますから。参考になるものばかりでした」
そう答えてから、少し考える。本当にそれだけだっただろうか。
知らない設備を見ることは楽しかった。それは事実だ。
だが、セオドアと考えを交わすことも楽しかった。普段とは違う彼の姿を知れたことも。
「……それに」
口を開いたものの、続きがなかなか出てこない。
セオドアは急かすことなく待っていた。
「セオドアが案内してくださったから、楽しかったです」
「…………」
「なんですか、その顔」
にやけが一切隠せていない。というか、隠すつもりもなさそうだ。
「いや、ちょっと、今のもう一回言ってくれない? 俺の願望が作り出した幻聴かもしれない」
「絶対に嫌です」
「一生大事にするから」
「言葉を保存しようとしないでください」
やはり言わなければよかったかもしれない。だが、不思議と後悔はしなかった。
セオドアはしばらく嬉しそうにしていたが、やがて空を見上げる。太陽はすでに天頂を越え、少しずつ西へ傾き始めていた。
「そろそろ戻ろうか」
「もうですか?」
「昼食を食べたら城に戻るつもりだったからね。フェリシア嬢をあまり遅くまで連れ回すわけにもいかないし」
フェリシアは少しだけ目を瞬かせた。
いつものセオドアなら、もう少し見ようだとか、夕食も一緒にだとか言い出しそうなものなのに。
こちらのことを考えて自分から切り上げるとは、随分と成長したらしい。
「……フェリシア嬢、また何か変なこと考えてない?」
「いえ、殿下もちゃんと帰る時間を考えられるんだなと」
「俺を何だと思ってるのさ」
「自制のできない残念な王太子です」
「まだその評価なの?」
不満そうではあるものの、否定材料が思い浮かばないのか、それ以上は反論してこなかった。自覚できるようになっているだけ進歩である。
「昼食はどうするんですか?」
「さっきの屋台で軽く食べたし、何か買って帰ろうか。城で食べてもいいし」
「ではそうしましょう」
再び市場の方へと歩き始める。来た道を戻るだけなので、視察らしい説明はもうない。
昼食のパンだけ購入して、あとは行き交う人々を避けながら、時折露店を眺めるだけだ。
「フェリシア嬢」
「なんですか?」
「手、離す?」
セオドアが聞いてきた。
これまでなら自分からは絶対に言わなかっただろう。だが、今はフェリシアの意思を確認するために聞いている。
フェリシアは繋がれた手を見下ろした。
剣を握り続けた、少し硬い手。セオドアの手だ。
「……城に戻るまでは、このままでもいいです」
一瞬、握られている手が強張った。
「……本当に?」
「嫌なら離しますけど」
「一切何も全く嫌じゃない」
返答までが恐ろしく早かった。
「なら行きましょう」
フェリシアは前を向いて歩き始める。
セオドアも珍しく余計なことは言わず、静かに隣を歩いた。
しかし横顔を見なくても分かる。繋がれた手から伝わる微かな震えが、すべてを物語っていた。
「……そんなに嬉しいんですか?」
「今話しかけないで。たぶん変なこと言うから」
「自覚があるなら素晴らしいですね。では黙っていてください」
「頑張る」
ようやく本当に自制を覚え始めたらしい。
***
王城へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
裏門を通り抜け、人目の少ない廊下へ入ったところで、フェリシアはようやく手を離した。
セオドアは名残惜しそうにしているが、何も言わない。
「今日はありがとうございました」
フェリシアは一礼した。
「設備もいろいろと見られましたし、本当に勉強になりました」
「どういたしまして。俺も楽しかったよ」
セオドアは柔らかく笑う。
「また行こうか」
「視察にですか?」
「もちろん」
だが一拍後。
「デートでもいいけど」
「視察です」
反射的に返すと、セオドアは楽しそうに笑った。
だがフェリシアはそこで言葉を切らず、少しだけ考えてから続けた。
「……次は、今日見られなかったところをお願いします」
「……えっ」
今度はセオドアが固まった。
「なんですか? 殿下がまた行こうっておっしゃったんじゃないですか」
「それはそうなんだけど……フェリシア嬢から具体的に次の話をしてくれるとは思わなくて」
そんなことでいちいち喜ばないでほしい。そう言おうとしたが、今日一日を思い返してやめた。
知らないものをたくさん見た。セオドアの知らなかった一面を見た。自分の領地について考えるきっかけにもなった。
それに何より。
「……楽しかったので」
口に出してから少しだけ恥ずかしくなった。だが訂正するつもりもない。
セオドアの目が見開かれる。それからゆっくりと、それはもう嬉しそうに笑った。
「うん。じゃあまた行こう」
今度はデートという言葉を付け足さなかった。




